<短編小説>

中国行きのスロウ・ボート (1983年 中央公論社)
 「本書には1980年春から1982年夏にかけて発表された七つの短編が年代順に収められている」とのことで、収録されているのは「中国行きのスロウ・ボート」「貧乏な叔母さんの話」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「カンガルー通信」「午後の最後の芝生」「土の中の彼女の小さな犬」「シドニーのグリーン・ストリート」以上である。僕が好きなのは、やっぱり「午後の…」だ。その時代の埃臭いにおいがする。
 よく、村上さんの作品にただよう感情を「喪失感」というけれど、僕はそれよりももう少し無機的なものを感じる。「喪失感」という感情も、ある意味では感情としてきちんと形をとったものである。僕がこの作品から感じるのは、そのようなかたちをとっていない。ちょうど真空のように、自身が力を持っているのではなく、周囲がそこにむかって引っ張られるがために生じる違和感とでもいおうか。
 そういえば『ジョジョの奇妙な冒険』で、空間を抉り取る「ザ・ハンド」というスタンドがあったけれど、そんなふうに心の空間のどこかが、さくっと抉り取られて真空になってしまう。「アンチ・クライマックス」なプロットの目指すところは、そう言った「形のない形」ではないだろうか。この段階では、かなり苦労して文体をさぐっている作家の緊張感からか、全体的に硬質な印象を受ける作品が多い。


カンガルー日和 (1983年 平凡社)
 1981年4月から83年3月にわたって、「トレフル」という小雑誌に掲載された計23編の作品が収められている。それぞれの作品の長さは8〜14枚というから、まあ短い。ショートショートみたいだ(もちろん星新一みたいに起承転結は全くないけど)。『夜のくもざる』もそうだけど、軽くて、明るくて、へんてこなのはこの出版社から出されるらしい。
 収録作品は「カンガルー日和」「4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて」「眠い」「タクシーに乗った吸血鬼」「彼女の町と、彼女の綿羊」「あしか祭」「鏡」「1963/1982年のイパネマ娘」「バート・バカラックはお好き?」「5月の海岸線」「駄目になった王国」「32歳のデイトリッパー」「とんがり焼きの盛衰」「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」「スパゲティーの年に」「かいつぶり」「サウスベイ・ストラット――ドゥービー・ブラザーズ「サウスベイ・ストラット」のためのBGM」「図書館奇譚」以上である。最後の「図書館奇譚」だけは6回の続き物である。奥さんの要望に応えて書かれるという作品で、なんだかんだいいながら仲のいいご夫妻である。『羊をめぐる冒険』と同時期のため、羊男が登場したり、綿羊のことが書かれていたりするのもおもしろい。それにしてもムクドリをくわえたまま、口が裂け、骨が飛び散った黒い犬はなんだか哀れだなあ。


蛍・納屋を焼く・その他の短編 (1984年 新潮社)
 わりと薄い本だが、短編集ではこれが一番人気だろう(僕もこれがいちばん好き)。『ノルウェイの森』のベースになった、「蛍」が収録されている本として、がぜん有名になった。収録作品は「蛍」「納屋を焼く」「踊る小人」「めくらやなぎと眠る女」「三つのドイツ幻想」である。
 「蛍」ももちろんいい。長編よりもずっと優しく、押さえられた文体で、読んでいてそれこそ「ほろっと」するような、叙情的作品である。でも、僕がそれよりもさらに好きなのは「めくらやなぎ」である。これも『ノルウェイの森』にエピソードとしてだけれど、登場してくる部分が含まれている。難聴のいとこと「僕」の、なんともいえない優しさに満ちた会話の中に、僕と友達(キズキ)とで、バイクに乗り、病院で骨の手術をした友達の彼女(直子)を見舞いに行くという話が挟み込まれ、ちょうどトリオのように構成されている。
 僕も、右の耳が全く聞こえないので(左は普通の人以上によく聞こえるけど(^_^;))、このいとこの言葉がとても温かく身に沁みてくる。損なわれたもの(あるいは損なわれようとしているもの)を心から悼むという態度は、村上さんの一貫した有り様のように思われる。すごく個人的ではあるけれど、こういう作品が書けるっていうのは本当に得難い力だと思う。


回転木馬のデッドヒート (1985年 講談社)
 これは、他の短編集とはかなり雰囲気が異なっている。「はじめに」の文章を読むと、いったいどこまで信じていいのかわからないけれど(だってこれも小説だと言われたら、できのいい嘘ということになる。もっともそんな手の込んだことをするとも思えないけれど)、村上さんが周囲の人から聞かされた話を訓練がてら「スケッチ」として書いていくうちに、最初は全くそんな気はなかったのに、出版したほうがいいと思い出したというのである。人の話を聞くのが好きな村上さんが内界にため込みながら、小説に使われず「おり(ちなみに三重には"とごる"という方言がある。なにか混合した液体がだんだん分解して、固形物が沈殿するのをいうのだが、この感覚に近い)」として溜まっていたものが、こういう形で「語られたがっていた」というのである。
 というわけで、ここに収められている文章は、正確に言うとノンフィクションでも、小説でもない。マテリアルは事実で、表現形式が小説というのである。「そんなのなんでいちいち断るんだ」と思うけれど、おそらくころは村上さんが大の私小説嫌いということに由来しているんじゃないだろうか。いささかなりとも「なんだ事実も使うじゃないか」などと見られるのは許せないものがあったのかもしれない。そんなの、ほんとは関係ないんだけれどね。
 いずれにせよ、この中に出てくる「物語」は、事実を用いているだけあって、はるかにきちんとした起承転結を持っていて、わかりやすい。もちろん奇妙で、不思議といえば不思議なのだけれど、でもわかるという、そういう話である。
 まだまだ、こういう話はたくさんしょい込んでおられそうな気がするけど、残念ながらこれ一冊きりである。おそらく、このおりの、もっとふさわしい出し方を、彼はすでに知ってしまったのだろう
 内容は「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「プールサイド」「今は亡き王女のための」「嘔吐1979」「雨やどり」「野球場」「ハンティング・ナイフ」。

*「全集」に、実はやっぱりこの作品はフィクションであると書かれているとご指摘いただきました。でも、本当にそうなのかな? 疑心暗鬼だな。(笑)


パン屋再襲撃 (1986年 文藝春秋)
 1985年から86年にかけて、雑誌に掲載された作品を収録している。内容は「パン屋再襲撃」「象の消滅」「ファミリー・アフェア」「双子と沈んだ大陸」「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド進入・そして強風世界」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。「ねじまき鳥…」は、言うまでもなく、長編『ねじまき鳥クロニクル』のベースとなった作品である。それにしても、一つだけわからないことは、なぜこの短編を、もっと膨らまそうとしたのか、その動機だ(もしどこかで村上さんが語っているなら教えてください。僕は読んだ覚えがない)。正直なところ、最初読んだとき、この短編のあまりにわけのわからないぷつんと切れた終わり方のせいで、意味も何もさっぱりわからなかったのである。それとも、ひょっとして、これが理由なんだろうか? このわけのわからない物語に決着をつけるということが。どうも文藝春秋から出る短編はシュール系のようだ。
 そうそう、「今更」だけれど、一応補足。まるで方程式の変数みたいに全編に登場する「ワタナベ・ノボル」という名前は、安西水丸さんの本名だそうである。ほとんど駅前のコンビニ傘のようにあしざまに使われているのが気の毒である。さすがに邪悪の根源に知り合いの名前を使うのは気が引けたのか、『ねじまき鳥クロニクル』では「ワタヤ・ノボル」に変わっている。まあ、確かに人物の名前を考えるのはむずかしいものですが、それにしてもねえ(^_^;)。


TVピープル (1990年 文藝春秋)
 というわけで、文藝春秋シュール第二弾である。1989年に雑誌に掲載された作品・もしくは書き下ろしの「TVピープル」「飛行機――あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」「加納クレタ」「ゾンビ」「眠り」が収録されている。ところで、『回転木馬のデッドヒート』のところで、もうこのような短編はないと書いたけれど、嘘です。「フォークロア」を忘れていた。これも、実話として村上さんが聞いた話を「スケッチ」という形にしたものである。それにしても、この話の語り部である村上さんの友人からは、『ダンス』の五反田君と共通する物腰を連想するのだけれど、どうでしょう? 「フォークロア」以外の作品は、みな『ねじまき鳥』的なフレイバーを、多分に保有しているのが、今見るとよくわかる。文体耕耘短編のようである。とはいえ、ここから長編までにはずいぶん長い時間がかかっているから、相当な熟成を要したのだろう。また「眠り」では女性が語り手となっているが、おそらく初の試みだ。女性語りは、他に「緑色の獣」「氷男」がある。


夜のくもざる (1995年 平凡社)
 ひさびさの平凡社。副題に「村上朝日堂短編小説」と書かれているように、水丸さんの絵がふんだんに使われた、絵日記のような短編集。初出誌はシリーズ広告として、糸井重里さんが企画したもので、J・プレスとかパーカー万年筆のために書かれたもの。1985年4月〜87年2月、1993年4月〜95年3月にかけて連載(?)された。内容は長くなるので省略。でも、こんな冗談毎日聞かされる(かどうかしらないけれど)、奥さんって気の毒(^_^;)。なかなかええもんでっせ、くりゃくりゃ。


レキシントンの幽霊 (1996年 文藝春秋)
 1990年〜96年(かなり分散している)にかけて発表された作品が収録されている。内容は「レキシントンの幽霊」「緑色の獣」「沈黙」「氷男」「トニー滝谷」「七番目の男」「めくらやなぎと、眠る女」。初出一覧を見ると「ロングバージョン(さよ〜なら)」とか「ショートバージョン」とか書かれているが、これはあとがきによると短編を長くしたり短くしたりするのに一時期凝ったからだという。これは、カーヴァーの影響だろう(彼もまた執拗に改訂を重ねる作家である。おかげで無数のバージョンがあり、翻訳者泣かせだと村上さんはどこかで書いていた)。
 さて、ここにいたって、『回転木馬』的「スケッチ」と「フィクション」の区別は、ほとんどつかなくなっている。あえていえば「沈黙」「七番目の男」はスケッチ風だが、おそらく後者はフィクションだろう。微妙に色彩が違う。逆に「レキシントンの幽霊」は、本文を信じるなら、事実からマテリアルが取られている。しかし、それは村上さん本人の体験なので、またスケッチとは違い、「ノンフィクション・ノベル」的な感じになっている。なんとなく『心臓を貫かれて』を連想するシチュエーションである。
 全体的に、暗黒の要素が濃く、内的な暴力と闇への恐怖感が滲出している感じがする。最後に収められた「めくらやなぎ」もそうだ。原作の大幅ショートバージョンだが、文体がかなり堅くなり、エンディングも変わってしまっている。元の叙情的な透明感が薄まり、最後の暗くよどんだ感じで「汚し」をかけられてしまっている。個人的には前の方が好きだけれど、村上さんの気持ちの反映として対照すると、いろいろよくわかる作品ではある。



神の子どもたちはみな踊る (2000年 新潮社)
 初出は「新潮」99年8月号〜12月号までに連載された連作「地震のあとで」。一篇の書き下ろしを加えた計六篇の初の連作小説集で、タイトルは「UFOが釧路に降りる」「アイロンのある風景」「神の子どもたちはみな踊る」「タイランド」「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」。
 「読み終わったあと、あなたの中の何かが変わる」というすさまじいコピーにはびっくりしたが、読んでみれば今までの短編よりもよほど読みやすく、取っつきやすい作品ばかりでほっとした。とはいえ、短編=村上さんの文体実験室という定義は相変わらず健在のようで、今度はすべて三人称で描かれている。人によっては、ずいぶん日本純文学的オーソドックスな文体になったなあと、感じるかもしれない(少なくとも僕は、ちょっとそう思った)。しかし、中にかかれているモチーフや、感情の形は、間違いなく村上さんのものだ。「喪失感」「無力感」「不条理性」「やみくろ」「暴力」「あっちとこっち」そして「性」等々、この決して長くはない物語の中に、村上さんのエッセンスがすべて詰まっているといってもいい。
 例えば最初の「UFOが釧路に降りる」の最後のオチのところ。気がついたら自分もまたごっそり削り落とされていたという、物理的な喪失感をかなりリアルに感じさせてくれる(ほとんどこの一瞬のためのプロットである)。これと類似した経験を、例えば「ノルウェイの森」の直子が死んだところでも味わったことがあることを思い出すだろう。「アイロンのある風景」の冷蔵庫の死のイメージは「ねじまき鳥クロニクル」の間宮軍曹の井戸内体験を思いおこさせるし、「神の子らは…」の追走シーンは、これもまた「ねじまき鳥」の鉄パイプで殴りつけるシーンとよく似た印象を抱かせる。「タイランド」の夢見婆は「ノルウェイの森」の死にかけた緑のオヤジや「ダンスダンスダンス」のユキを思い出させる。「かえるくん」は懐かしき羊男の再来であるし(あるいは緑色の獣)、「蜂蜜パイ」の主人公は、そのまま「風の歌を聴け」以降四作の主人公と、そのままダブってくる。というわけで、なんだか村上ワールド幕内弁当的に僕は楽しませてもらった。
 短編小説ならこれ以上とくに何も書くことはないわけだが、これは連作小説。一つ一つがばらばらではなく、すべてが同じものを共有している。それが「地震のあとで」という原題の通り、阪神大震災である。とはいうものの、震災が直接モチーフになっているわけではなく、それはむしろ通奏低音のように深い部分で低く鳴り続けているだけだ。ご存知の通り村上さんは芦屋の出身で、神戸周辺は作家のホームタウンであるが、処女作以外そこに触れた文章は少ない(関西弁だって今回が初登場だと思う)。小説でもほとんど東京が舞台で、関西人というイメージがほとんどもてない村上さんだが、それでも今までの作品で神戸周辺に触れた印象的なものが二つある。一つは「羊をめぐる冒険」のラスト。もう一つは「神戸まで歩く」という短い文章である。この二つに共通しているのは、「ロストホーム」の感覚である。故郷を失ってしまった自分、そして自分をおいて変わってしまった街。それは単なる郷愁ではなく、もっとシビアな「欠落」「削剥」である。ただ前者はまだ地震は起こってはおらず、むしろ高度経済成長による開発・高度資本主義社会が過去の良きものを駆逐することに対する痛みという方向だったわけだが、後者は震災復興後の街を歩く中で、「己が失わせたもの」と「地震が失わせたもの」という喪失感が二乗されたような深い哀しみと怖れが示唆されている。
 この「神の子どもたちは…」は、「神戸まで歩く」の中で示唆され、暗示されていた感情の形が、より明確に弁証法的に語られていく。感情というルービックキューブを手に取り、さまざまな視点に持ち替え、ルーペで細部まで子細に検証したものを、文章に置きかえ、そして全体を構成していったような感じを受ける。ちょうどマーラーの「巨人」やチャイコフスキーの交響曲5番のように、同じモチーフを全楽章にちりばめながら、一つ一つの楽章は全くそれぞれ独立した作品として存在し、そして全体を厳密に構成している。「UFO」「アイロン」は1楽章、「神の子ども」「タイランド」が2楽章、「かえるくん」が3楽章、「蜂蜜パイ」が4楽章とみると、見事に交響曲的起承転結の形が見えてくるような気がする。
 とりわけ書き下ろしの「蜂蜜パイ」は、同じ作家が主役(勿論全然タイプは異なるが)だけあって、村上さんの小説観をより多く含み込ませているように思われる。フィルターは通過させているものの、物語に対する深い思いのようなものが感じられてくる。最後にまさきちととんきちの話をなんとか救いのある形に変え、「これまでとは違う小説を書こう」というところなど、(僕にとっては)本当にそうなっていって欲しいと思う部分であった。
 でも一番好きなのは、もちろん皆さんと一緒「かえるくん」です(笑)。指一本立ててね。こんなふうに自分のことを全部知ってくれて、全面肯定してくれたら、そりゃ好きになっちゃいますよね。そんなの現実にあるわけがないから「かえるくん」なわけだけど。だって「理解は誤解の総体」なんだもんね(「スプートニク」に次いでまた出てきましたね。このアフォリズム)。





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