
嫌なこと、嫌いなこと、
したくないこと、
されたくないこと、
頭に来ること、
苦しいこと。
そういうことは、けっこうわかりやすい。
いつもは足の小指なんて
意識したこともないくせに
ちょっと豆が出来るだけで
歩くこともままならない。
イタイ、イタイと意識する。
僕のお世話していた信者さんにも
そんな人がいっぱいた。
いいことがいっぱいおこっていても
最後には「でも、こことここがねえ」
って文句をいう。
そういうのがいやだなあって
思っている自分も
じゃあ「なにが好きなの?」
と聞かれるとなかなかわからない。
自分の好きなこと、
満足していること、
それをすると心からほっとできること
力が抜けること、
そんなに無理をしなくてもするっとできてしまうこと。
自分が好きなことって
どこか見過ごしがちで
気付きにくい。
まるでとても調子の良い身体が
たいして「調子が良い」とも思わないように。
「あたりまえ」というマヒした感性に
大切な「好き」が埋もれてしまってはいないか?
ザ・シークレットを読んでいて
ランプの魔法使い「ジニー」のたとえが出てくる。
宇宙とは真にそのようなものなのだと。
「求めよ、さらば与えられん」である。
なのに、なぜか求めるものが出てこない。
出てきたものはつまらないものばかり。
そして、言ったあとで後悔してしまう。
「あんなつまらないもの頼まなければ良かった」
自分の願い事を書いてみよう、と
いろんなセッションで言われる。
実際に書いてみる。
そのときはできるだけ
「好きなこと」「願っていること」を書いているつもりだ。
でも、あとで見返すと
ぜんぜんワクワクしないのだ。
それは本当に自分の願いなのだろうか?
人がそう願うから、
自分もそう願っているだけじゃないのか?
僕は今、
栄に毎日出勤している。
僕はずっと
そういうふうに
「満員電車に揺られ」「ぎゅうぎゅうされ」
「時間を縛られ」「空気の悪い街中で」
仕事をするのは、馬鹿馬鹿しいこと。
つまらないこと、ダサいこと。
そんなふうに思っていた。
なんとなく、本田健の世界観は
そんな感じだからだ。
従業員より、自営業の方がカッコいい。
フリーのほうがカッコいい。
そんなイメージがすごくあった。
でも、僕は今スーツを着て
栄の高いビルの見晴らしの良いオフィスで
パソコン相手に仕事をしているのが
なにも苦ではない。
むしろワクワクする。
時間が少しずれているおかげで
名古屋の地下鉄はたいして混まない。
朝は余裕で出勤し
オフィス近くのスターバックスのソファで
ゆったりとくつろぎながら本を読む。
オフィスでは
お金をもらいながら、
いろんなおもしろい話、
ためになる知識を教えてもらえるのだ。
なんてツイてるんだろう。
そしてお昼になると
きれいな街を歩き、
好きなお店に入って
おいしいランチを食べている。
セントラルパーク(栄の)は
とてもきれいなのだ。
いろんなものがキラキラと輝いている。
もちろんそれは
僕にしか見えないのかもしれない。
中にはつまらなそうに歩いている人もいる。
でも、僕はすごくきれいに見える。
人間が生み出した自動車、街、
建造物、公園やファッションや商品。
みんな人間が作ったんだ。
そう思うと、不思議な感銘がある。
たぶん僕は田舎は嫌いではないけれど、
ワクワクするわけじゃない。
癒されはするけど、長居する場所じゃない。
うちの奥さんは反対だ。
都会はたぶん住みにくいのだろう。
そう思うと、
僕の中で見事に願いが見えてきた。
奥さんの実家の土地に家を建てて
みんなはそこに住み、
僕はそこから名古屋のオフィスに通う。
それはたぶん自分の会社だ。
自分の好きな車でオフィスに通い、
そしてワクワクしながら街中で仕事をし、
終わったら山のふもとの田舎の家に帰る。
愛する奥さんと可愛い子供たちがまっている。
そんなありきたりだけれど
くっきりとした映像が見えたとき
ああ、きっとこうなるんだなって
実感があった。
土地もあるし、時期が来ればちゃんとそうなる。
仕事はいずれ形をとるだろう。
それがなにかもわかりつつある。
僕が好きなこと。
それは人が作ったものの中にある。
僕のかつていた場所は
世界平和をとき地上天国を題目とし
そして病貧争絶無、
真善美の世界の実現を旗印に掲げた。
でも、みんな病貧争にフォーカスし過ぎて
病貧争な人がとても多かった。
真善美、健富和と言われても全然ピンとこなかった。
だってそういう人が一人もいなかったから。
僕は自分がまず
幸せになると決めた。
たっぷりと満たされること。
完璧なまでに
すべてが美しく
そして光り輝くような人生を実現すること。
そこから始めて説得力が生まれる。
今日仕事をしていたら
たまたま竹田製菓のHPにリンクした。
こうちゃん(本田晃一さん)が事業継承した
竹田和平さんのサイトである。
竹田さんがにこにこしながら
ありがとう100万遍という動画を見ていたら
こちらまで幸せな気持ちになって笑ってしまった。
こうちゃんのおかげだ。
こんな人とつなげてくれて
本当にありがとうございますって思う。
今日もこうちゃんのブログで
和平さんから教えてもらったことを
シェアしてくれている。
そういう本物の幸せを体現し実際にシェアしている人の
共通していることは
言葉が光り輝いているということだ。
言葉が光だけだと嘘臭いとかつまらないというのは
自分がそういう部分にしか
フォーカスできないということに過ぎない。
物事には常に光と影がある。
ならば、徹して光を見る。
そう決めることが幸せを選び取ることだ。
願いをかなえる、幸せになる。
それはすべて自分がそう選択するかどうかによる。
不幸を選択したい人はたくさんいる。
それもその人の人生だ。
でも、それだけが人生だというのは狭いだろう。
僕はこの世界の中でまだ数少ない
そういった
光を徹して見つめている人々のところに行こうと思う。
最近いろんな本を読み、いろんな人とであう中で
選んだ結論である。
僕の願いは
月のように光を反射して生きるのではなく
太陽のように温かな光として生きることだからだ。