2007年2月 6日
一九九四年のTotal Ricall
一年たった今も、僕は自分の文章をほとんど書くことができないでいる。
去年の今頃、僕はずっと「グラール」を書き続けていた。たぶん、今頃は「三つの試練」のリュートが死んだあたりを書いている頃だろうと思う。あのときの僕は、ほとんど自分の文章と同一化していた。というより、自分の紡ぎ出す文章の流れ以外を感じとることが、ほとんど不可能なほどその中に没入していた。まるで自分が、本当に水の流れそのものになったかのように、次々と噴き出してくる言葉の奔流にもみくちゃにされ、窒息しそうになりながら、息も絶え絶えにそれを文字に置き換えていった。確かにそれは、ほとんど生のすれすれに近い、苦痛の極みではあった。でも、それはまた、僕という存在がかつてないほど中心の一点に向かい、限りなく凝縮し、すべてが小さな点で完璧に一体となっているという、未だかつてない経験をもたらしてくれた。それは、ちょっと言葉では言い表せない、歓喜の体験だった。
僕は、それまで自分が本当に自分と同一化したという気持ちを抱いたことがなかった。むしろ、自分という存在をはっきりとらえよう、きちんと整理しようと努めれば努めるほど、どうしようもないほど矛盾し、混乱し、茫漠とした様に唖然とするほかないといった有り様だった。本当にそうなのだ。僕は自分の名前すら、満足に自分の所有物と認識できえなかったのだから。僕は自分の顔を鏡で見るたび、自分という存在が体から「ひょいっ」と、飛び出してしまいそうで、頭を抱えてしまうくらい混乱したものだった。
そして心の中にはいつも、僕の手には負えないコンプレックスの固まりがあった。背が小さい(中学の頃、僕は一番背が低かった)、陰毛が生えない(修学旅行の時、すごく困った)、顔が変だ(顎がしゃくれてる、髪が逆立つ、目つきが悪い)、女の子とうまくつき合えない、体が痩せすぎている、等々。だいたいが肉体に関するものだった。そういう、いわゆる思春期の男の子なら誰でも抱くような、つまらないコンプレックスがいつも僕の邪魔をした。それがつまらないことだと自分でもわかっているのに気になってしまうのだ。
いつも人の目をどこかで気にしていた。いつも自分に自信がなかった。そういうのは、当然のことだけれど居心地の悪いものだった。自分がどこか、ちゃんと自分じゃないような気がした。まるで僕はディズニーランドのぬいぐるみで、ドナルドダックの顔にあけられた作りものの目から、お城とかパレードとかきれいな女の子たちを、ぼんやり眺めているみたいだった。もちろん、これは今だからこのように表現できるのであって、そのころはそもそもそんなこと、自覚すらできなかった。僕の自我はまだ、そのとき深いまどろみの中にいた。自分と認識している世界の領域は大陸棚のように取り囲まれた、薄っぺらな部分にすぎなかった。そして、それだけが所詮自分なんだと思いこんでいた。
確かに僕は、あまりまともとはいえない世界に属し、そのまともとはいえない世界にのみ通用する様々な法則と作法を身につけていた。宗教とか、神様とか、そういったおよそ現実離れした世界が、僕にとってのオーディナリー・ワールドだった。そしてそこで出会う、どう考えてもまともとはいえない人たちが、僕にとってのオーディナリー・ピープルだった。そして、僕もまた、そのまともではない世界をまともと思っているまともでない人間の一人なのだと、しごくまともに考えていた。つまり、僕はその世界こそ、本当のまともな世界なのだと思いこんでいたのだった。
それにもかかわらず、僕という人間に関しては俗っぽすぎるほど凡庸だと考えていた。変わっているのは環境であって、僕自身は関係ないと、そう思っていたのだ。知っていることのうち、世間で通用することよりも、しないことの方が多かった。親の仕事を訊かれるたび、一言で済ませられない面倒くささをうっとうしく思った。でも、そのことをきちんと自覚している自分は——クールに、知的に、理性的にそう判断している自分という存在は、いわゆるどこにでもいる、ありきたりの人間だと信じて疑わなかった。ずっと感じていた違和感——自分という存在が微妙にぶれて、二重にも三重にもピントがずれているような感覚——は、結局仕方ないのだと感じていた。いや、それが変だと意識もできなかった。最初から聾唖の人間には、音は聞こえないのではなく存在しない。存在しないもののことを、どうしてとやかく言うことができるだろう? そういうことだ。
そう、それまで僕は自分という存在と、これほどまで完璧に一致しうる瞬間があり得るとは、想像すらできなかったのだ。それが、もっとも本来あるべき自分の姿なのだということを、予感することすらできなかったのだ。
僕は十二月三十一日、大晦日の正午に「グラール」を脱稿した。書き始めたはじめから、これはもう必ず、今年中に(つまり九三年中に)仕上げなければダメだと思った。神様からそのように告げられたのだと、そう思ったのだ。書き始めた——正式には「書かされ始めた」のは——十一月の二十日頃だったから、正味一月半もなかったわけで、その間に(いくら会話文主体の戯曲とはいえ)原稿用紙八百枚を書くというのは、生半可な仕事ではなかった。それでも、どんなにしんどくても、やめようと思ったことは一度もなかった。書き上げられないんじゃないかと、不安に思ったことすらなかった。最後のシーンが余りもリアルに脳裏の中にあって、必ず行き着くのがわかっていたから、とにかく早くそこにたどりつきたかった。途中がどうなるかはやっていれば必ずでてくる。いや、意地でも絞り出してやる。どうしてかはわからないけれど、あのヴィジョンが僕にどうしても書いてほしいと、書いてくれと、そう望んでいるのだ。ならば、これをきちんとこの世の中に形作るのが僕の使命なんだと、そう信じた。それまでもいくつか中編の小説を書いたけれど、これほど激しく内から沸き起こってくるインスピレーションは初めてのことだった。
そのヴィジョンを見たのは一九九三年十一月、神奈川県民ホールに(たぶん新星日響の)ベートーヴェンを聴きに行ったときのことだった。横浜にでるときはいつも東横線を使うのに、その日は珍しく高田馬場から山手線で品川まで行き、京浜東北線に乗り換えて桜木町まで行った。僕は少し風邪をひいていて、昼間図書館で仕事をしているときも、行こうかどうしようか迷っていた。でも、だいたいそういうとき、僕は妙に意固地になって、絶対行ったるがや、という気持ちになってしまうのだった。
風邪をひきはじめの、ぼわっと生温かい気怠さに包まれながら、もう日の暮れたターミナルから山下公園行きのバスに乗った。チケットを持っていなかったので、カウンターに行き、当日券を見に行くと、一階席の右脇の、かなりいい席が学生券として売られていた。腹が減ったので、隣のビルの地下街でさんざん迷い、やっと決めた洋食屋でハヤシライスのセットを食べた。あまりお金がなくて、結構わびしい食事が続いていた頃だった。クラシックのCDとコンサートのチケット代で食費をぎりぎりまで削っていたのだ。
曲目は最初がウィリアム・テル序曲、二番目がショパンのピアノ協奏曲一番だったと記憶している。何とか桃ちゃんという、中国人みたいな名前の女性ソリストで、二十を越えているにしては小さくてかわいらしくて、アンコールで頭をぺこんと下げると子どもみたいだった。でも経歴を見ると結構蒼々たるもので(だいたい経歴とはそういうものだけれど)、そういう落差が何となく悔しくて、「生意気だよな」って嫉妬してしまうのだった。ただ、曲自体が退屈なのに加えて、体調はますます下り坂ということもあり、ほとんど心には入ってこなかった。
休憩を挟み、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」が始まった。このとき、僕の状態はかなりひどいもので、頭は水銀みたいに重く淀んでいて、鼻水が雨垂れみたいに滴り落ちていた。もう曲を聴くだけの集中力もなかった。せっかくわざわざ来て、安くないお金を払って聴きに来たのにと思うと悔しかった。まあでも仕方がない。終わったらさっさと帰って、布団をかぶって寝てしまおうと諦めた頃、二楽章が終わった。この曲は三、四、五楽章が連続しているので、これが最後の曲間だった。まあこれで終わりだからと居住まいを正して待っていると、ほどなく会場内の咳払いも止み、演奏が再開した。
第三楽章、人々が明るい野山の元でお祭りを始める。にぎやかな笑い声、人々は楽しげに踊りながら草木や花々と戯れている。太陽は爽やかに照りつけ、心を浮き立たせる。第四楽章、しかしにわかに天候が崩れ始める。青空を黒雲が見る間に覆い、遠くからつぶやきのような雷鳴が響く。大きな雨粒が、一斉に急降下してくる。人々は慌てて頭を覆い、散り散りになって駆け去っていく。稲妻が光り、地響きのような雷があたりを圧する。地を叩く雨の水煙が滝の中にように景色を変える。女たちは思わず耳を押さえ、子どもは突然の世界の変わりように恐れおののく。しかし、徐々に雨足も収まり、雷鳴も遠のいていく。黒雲が裂け、光が漏れ出る。どこかから羊飼いの吹く角笛の音が聞こえてくる。第五楽章、雲は見る間にひいていき、鮮やかな青空が地平を包んでいく。丘になびく緑の草たちは、雨に濡れて、滴は陽光をきらきらと反射させる。
僕は、知らない間にそのような景色の中にいた。微熱に浸り、虚ろになった表層のずっと奥深くで、信じられないほど鮮明な色に満ちた、意識の端に立っていた。いや、立ってすらいなかった。僕の体はそこにはなく、ただ意識だけが、僕という形を取ってそこにいた。斜面を風が吹いて行く。僕は丘の草をなびかせていく風になって、ずっと飛んでいく。そして見たのだ。雪に閉ざされた灰色の国に光と色が戻る様を。若葉が芽吹き、蕾が綻び、失われたものすべてが取り戻される様を。
結局これを言葉で説明することなんてできない。それはすでに曲のイメージではなく、オーケストラの作り出す音は船でしかなかった。僕はその船に乗せられて、意識の国の始まりの部分に、そしてその終わりの部分に連れていかれたのだった。
現実の世界では、すでに交響曲の演奏は終わり、アンコールの「フィガロの結婚」序曲が流れている最中だった。僕はふわふわと漂うような心持ちでそれを聞いていた。相変わらず体はどんよりと、にわか雨みたいに曇っていた。しかし——いや、だからこそ、僕の中にある意識の国は、まるで宵口に見えるシリウスのように明るく輝いて見えた。
今、僕は思う。その時の、たった一瞬の邂逅によって、さらに奥へと続く深化の旅を約束されたのではないかと。僕の無意識の中に潜む、本当の自分を探す旅。善も悪もない世界、天使と悪魔が共に住む内なる宇宙。そんな場所に行くためのチケットを、僕はなにも知らぬ間に手にしていた。「銀河鉄道の夜」のジョバンニみたいに。
ホールを出たあとも、僕はその熱気から冷めることはなかった。風邪の気持ちの悪さは吹き飛び、気怠さも感じなかった。熱すら気持ちが良かった。そんな高揚した感情のまま、さわやかな風の吹く横浜の町並みを歩いていった。中野にある僕の部屋に着いても、それは簡単には冷めなかった。そしてその芯の部分は、すべてを形にした今でもまだ冷めてはいない。
僕の一九九四年はそこから始まった。そのときの僕は、もう本当にすっからかんになってしまったような気がした。自分が裏返って、中味をみんな落っことして、そしてまた再び裏返ったみたいだった。心が軽くて、すごく気持ちが良かった。でも、どこか足が地に着かないような感じだった。確かに痛みも、傷も、癒されぬままそこにあった。けれど、そんなものはもうどうでもよかった。その時の達成感と、空虚感を埋めるものは何物も存在しなかった。
だから、そんな幸福な時間があれほど早く失われてしまうとは予想もしていなかった。
二月になり、僕は突如東京を引き払うことになった。大学を中退し、三重に戻らねばならなくなったのだ。一宗教団体の専従として。
僕がもっとも恐れ、僕がもっとも避けたかった結末だった。
*
一年たった今、僕はこの文章を書きながら思う。久しぶりだなと。こんな風に正直に自分を語ることは、本当に久々のことではないかと思う。そう、僕はこの一年ずっとすっからかんだった。もちろん書く気がなかったわけではない。いくつか詩も書いたし、アイデアもそれなりにあった。また、仕事で書いた記事の原稿も自分なりにベストを尽くしてやった。でも、いざ自分自身の心の敷居をまたごうとすると、僕はふうっと無力感に陥ってしまうことになる。
そこはちょうど月面みたいだった。僕は薄い空気と重力の中に横たわり、自転する青い地球を眺めていた。ヘッドホンから流れてくるのは、モーツァルトの「ジュピター」だ。確かに、意識の表層近くにいる僕の魂は、忙しく急速に展開する現実の世界で、全力を尽くして働いている。でも、僕の心の芯の部分は、今も無音のようにとどまっている。ただ静かに、羽音のような時の刻む音が聞こえてくるだけだ。
僕はいったいなにを書けばいいというのだろう?
音のない音、色のない色、意識のない意識。僕は初めてそれを描こうとして、多大な労力を注ぎ、そしておそらくうまくいかなかった。結局あの作品は、一人を除き誰もわかってはくれなかったからだ。でも、それはそれでかまわない。なぜならあれは、僕のためのものだったから。僕は僕自身のためにあれを書いたのだ。自分の内奥の国に赴くために。そしてそこにある力の源泉にたどり着くために。さらにもう一つ。そのたった一人の理解者が、僕のもっとも大事な人物となるために。そう、あの作品はそのための重要な架け橋となってくれた。それで十分だった。
それでも、僕はこうも思う。きっとそのうちまた出てくるだろうと。それほど遠くない先に、再び動き出すだろうと。そう、なにかが生まれでようとしている。なにかが僕の中でじっと時を見ながら育っている。僕の中で失われたもの、僕の中で取り戻されたもの、そして僕の中で見いだされ、命を与えられたもの。それは今も、僕の手の届かない無意識の境界で、力強く息づいている。僕はそのことをはっきりと意識している。意識と無意識はまるで餅つきと水取りみたいに、お互いを絶妙に補い会い、さらに発展させようとしている。偶然の領域がせばまり、高次の必然性が、見事に世界を秩序立てる。矛盾や不合理は徐々に後退し、調和と真理に浸されるようになる。僕はそれに名前を付けることができる。かつて多くの人たちがその名を呼び、議論を戦わした言葉。「ある」とか「ない」とかデジタル信号みたいな単純な見方で手垢まみれにされた言葉。苦痛にうめく人々が、最後にもらす懇願の言葉。
僕は今それを、本当に愛と親しみを込めて呼ぶことができる。
ミヒャエル・エンデの「モモ」の中にこんな言葉がある。
「言葉が熟するのを待ちなさい」
「待てるかね?」とマイスターホラが訊ねる。モモはうなずく。
僕もまた待ち続けている。静かに月面で眠り続けながら。僕は今も待ち続けている。言葉が形を取り、僕だけの体を持って、いつかこの世界に生み落とされる日のことを。
- by lute
- at 05:46