不幸の再定義

CREATION II: Birth of a sculpture

まずは、不幸を定義しなおしてみるところから始めてみる。あなたにとって、今の不幸の定義はどのようなものだろうか。不幸とは、どのような状態を指すのだろうか。言葉にしてみてほしい。それが、無意識に放置していた信念や定義を認識する、ということである。

不幸とは…。という言葉を、思いつくまま書き並べてみよう。「不幸とは苦痛」「不幸とは死」「不幸とは別れ」「不幸とは失うこと」「不幸とは破壊」「不幸とは幸せが壊れること」「不幸とは人生である」などなど。悲観的な定義、ユーモラスな定義、ミニマムな定義、ユニバーサルな定義が発見される。「自分はこんなふうに信じていたのか」と驚くこともままあるだろう。

そこで、一つ一つ改めて考えてみるのだ。これは、自分にとって、真実だろうか、と。例えば「不幸とは苦痛」という定義を見てみよう。果たしてこれは真実かどうか。

では、出産するときの陣痛は、不幸なのだろうか。便秘で苦しい時、下痢の腹痛は不幸だろうか(笑)。歯医者の治療の傷みは苦痛だが、それによって虫歯が治ることは不幸ではない。むしろ、放置して虫歯になる方が、よほど不幸ではないか。ジェットコースターの恐怖だって苦痛だが、不幸ではない。

必ずしも、苦痛のすべてが不幸なわけでない。しかし、不幸な苦痛も存在する。その違いは、なんなのか。自分は、なんの疑いもなく「苦痛は不幸だ」と定義してきた。しかし、それは現実とはちがう。なのにそう定義付けることで、苦痛のすべてが不幸だと思ってしまい、苦痛をすべて拒否し、恐れてしまってはいないか。リスクを取ることすら苦痛と理解し、冒険も挑戦もできない自分になってはいないか。

死のすべてが不幸なわけではない。しかし、不幸な死も存在する。失うことすべてが不幸なわけではない。しかし、不幸な喪失も存在する。破壊のすべてが不幸ではない。しかし不幸な破壊も存在する。

幸せが壊れる、とはそもそも、幸せというガラスや陶器のような固定された状態があるという別の定義を示唆している。しかし、それは真実だろうか。我々は毎日、ささやかな幸せと不幸せをいったりきたりしている。実は、固定された幸福や、固定された不幸など存在しないことを知っているのだ。

幸せと不幸せとは、光と影のようなものであり、夏と冬のようなものであり、右と左であり、表と裏である。主観的な感じ方の問題なのだ。ならば、壊れる幸せなど、実は存在しない。すると、この不幸の定義も、真実ではないことになる。

このように、ひとつの概念を自分の経験した現実と照らし合わせて、正確に表現するよう、ひとつひとつ吟味していく作業が「認識」である。これによって、無意識に刷り込まれた不適切な定義を一つ一つ改変し、自分の体験に近づけばつくほど、内界と現実とが一致し、違和感が消える。抑えこまれていた力が解放され、力強さが取り戻されていく。

気づき・認識とは、自分を縛り付けている縄をほどき、力を取り戻すことなのである。

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