東京ポルカ(部屋の外の雨音と、夜の夢見る心があれば)

Tokyo at Dusk - Blade Runner Extreme

金色の液体を溜めた話

 ベレー帽をかぶって銀杏並木を歩いていたら、空から何かが降ってきた。それは細かくちぎれた金色のアルミフォイルだった。僕が手のひらを上に向けてそれを集めていると、周りの人たちも一緒になってそれを集め始めた。僕は帽子を取って、負けじと山盛りに溜め込んだ。しばらくして気がつくと、帽子の中は金色の液体に変わっていて、ビールのように泡を立てていた。周りの人に見せてやったら「なんだばかばかしい」といってみんなどこかに行ってしまった。僕はそれをゴクゴクと飲んで、すぐに家に帰って寝てしまった。

女の子に騙された話

 中古レコード屋で長い間探していたLPを見つけた。カウンターに持っていくと、店の女の子がきれいに包んでくれて、おまけに真赤なリボンまでつけてくれた。お礼を言って家に帰り、早速聞こうと思ってリボンを引っ張ると、確かにほどいたのにほどけなかった。もう一度引っ張ってみたら、やっぱりリボンはほどけなかった。するすると引っ張っていくうちに、部屋じゅうがリボンだらけになってしまった。苦情を言いにもう一度店に行くと、黄色と藤色のパンジーがいっぱい置いてある花屋になっていた。慌てて家に帰るともうあのLPはなくなって、部屋にはセイロン茶の匂いだけが残っていた。

誤解した話

 パキラが根詰まりをおこしたので植えかえをやろうとした。植木鉢から引っこ抜くと、銀色に光る小さな円いものがコロンと落ちてきた。それは時計の水銀電池だった。土を入れかえてパキラを植えこんだあと、植木鉢の下にコンセントを差し込んでおいた。次の日になるとパキラがユッカに変わっていた。友達に見せても信用しないので、コンセントを抜いてやった。明くる日の朝見るとパキラが真っ赤になって枯れていた。すぐにコンセントを差したら、パキラが言った。
「なんたる誤解」
 それで僕は、植えかえたあと水をやり忘れたことに気付いた。すぐさま水をかけてやったらバヒュン!と紫色の火花が散って、赤松に変わってしまった。

虹色を見た日

 雨降りの日、図書館に傘を忘れてきた。途中の店で傘を買おうとしたら、変な色の傘ばかりだった。面倒なので忘れられたビニール傘をさして歩いていたら、虹色にきらきら輝く雨が降ってきた。あまりに美しいので傘ごしに上を見上げていたら、後ろの人に「早く行きなさいよ」と怒られた。信号が変わって歩きだすと、交差点でドスン! びっくりして見ると、サンルーフのツーシーターがトラックに追突したのが見えた。流れ出たガソリンが道路に美しい虹色の筋をつけていた。僕は走って家に帰ってみると、絵はがきが二十五枚届いていた。全部クロード・モネの「積み藁」だった。

眼鏡の女の子の話

 美術館の展覧会に友達を誘ったら、眼鏡の女の子が「行っても無駄よ」と言った。
「無駄?」と僕は驚いて尋ねた。
「だって木の額縁しかないんだもの」と彼女は怒ったように言った。
「馬鹿だな」僕は笑った。「鏡を持っていかなきゃ」
「持っていったわ」
「でも見えなかったの?」
「そう」彼女はぶっきらぼうに言った。
「じゃあ鏡がきっと曇ってたんだろう」しばらく考えてから僕は言った。
「失礼ね!」彼女は怒って眼鏡を取った。彼女の目には瞳がなかった。

雨の日の珈琲店

 フランス風の珈琲店でレイモンド・カーヴァーの短編集を読んでいると、ガラス窓の向こうに人の気配がした。はっとして見ると雨だれが規則正しく落ちているだけだった。窓を開けると、何かが僕の顔をビュン!とかすめていった。何だろうと思ってじっと見てみると、それは真っ白な空気の固まりであった。嫌な予感がしたので自分の部屋に電話してみたら、留守番電話が言った。
「いつまでもそうしていられると思っているの?」
 お金を払おうと財布を見ると、一万円札が一枚しか入っていなかった。レジには十円玉しかなかった。しょうがないので僕は十円玉をカバンいっぱい詰めて帰った。

追いかけられた話

 視聴覚室で「トリスタンとイゾルデ」を見たあと、部屋を出ようとしたら待合室に僕の知った人がいるのに気付いた。やあ!と声をかけたら彼は顔を赤くして言った。
「失礼ですが、あなたはどちらのかたですか?」
 妙だなと思って彼の瞳を覗き込んだら、そこには白いドレスを着た美しい女性が映っていた。ギョッとして僕は逃げ出した。彼はエレベーターの中まで追いかけてきて、僕にキスしようとした。スニーカーのかかとで足を踏んづけると、彼はのたうちまわって苦しんだ。その隙に階段をかけ降りて、外に飛び出した。はずみに僕のスニーカーの片方が脱げた。家に帰ると図書館の女の子から電話がかかってきた。何だろうと思って聞いてみたら、
「カードをお忘れですよ」と彼女は答えた。

雨を降らせた話

 お腹が空いたのでスパゲティを茹でていたら、インターホンが鳴った。覗いてみたら新聞屋のようだったので、黙ったままいたらドアを蹴飛ばして帰っていった。頭に来たのでスパゲティの茹で汁をじょうろに入れて、ベランダ一面に撒いてやった。そうしたら青灰色の湯気がシュボンッ!と一斉に立ちのぼり、雨雲になってたちまち近所一体がどしゃぶりになった。飴玉のような水滴がボトボト落ちてきて、あちこちで駆け回る足音や悪態のような悲鳴が聞こえた。茹であがったスパゲティーを炒めて食べたら、ひどく真っ黒な味がした。それで僕はオリーヴオイルとカストロールをかけ間違えたことに気付いた。

ひそひそ話が気になった話

 開演前のプラネタリウムの中で恋人同士がひそひそ話をしていた。すると黄金虫が僕のところにやってきて、同じように何かひそひそと話しだした。それで僕は席を立ってジンジャエールを買いにいった。帰ってくると、恋人同士のかわりに小さな子供が一人ですわっていた。
「ここにいた人たちはどこ?」と僕はその子供にたずねた。
「シッ!」その子は怒ったように口に指をあてた。
 僕はだまって天井を見上げた。黄金虫のひそひそ話はいつまでもどこからか聞こえていた。それは「遠き山に日は落ちて」のメロディーに似ていた。

金の錨とオルゴールの話

 美術館へメアリー・カサットのパステル画を見に行った。帰り道、電車の中でうとうとしながらウォークマンで「イン・ザ・ガーデン」を聞いていた。すると突然「シマッタ!」という声がした。慌てて飛び起きてちょうど止まっていた駅で降りると、すぐに電車が行ってしまった。仕方なしに次の電車を待っていたら、どこからか金属的なオルゴールの音が聞こえてきた。何だろうかと思って階段を降りていくと、そこは湖の底だった。透明なエメラルドグリーンの水中を歩いていったら、大きな金の錨が落ちていた。どうやらそのあたりから音が発したようだった。僕はしばらくそのへんで本を読みながら、再びオルゴールの音がするのを待っていた。でも、その音は二度と聞こえてこなかった。しかたなく家に帰ったら、ウォークマンが小さなヴァイオリンに変わっていた。

ささやかな涙の話

 縁側や庭や物干し場のあるとても日本的な家の中で、今までずっと捜してきたひとに出会った。お手伝いのおばさんが「良い天気ね」と言った。でも空は青ではなく、トレーシングペーパーのような明るい白色だった。僕と彼女は向かい合って座布団の上に座っていた。僕は彼女の髪に手を伸ばして「短くしたんだね」と言った。でも彼女は髪の毛に手を触れさせてはくれなかった。そして「奇麗に伸びるまでは誰にも触らせないの」と言った。「そう」といって僕は手を引っ込めた。長い間黙って彼女の目を見つめていると、とても遠いところに来てしまったような気がした。僕は彼女に「ずっと捜していたんだ」と言いたかった。でもそこでは何も言うことができなかった。おばさんがそわそわしだしたので、しかたなく暇を告げた。外に出ても空は真っ白なままで、このまま雨になってしまうのか、やがて雲が切れるのか、どちらともわからなかった。僕は水すましのようにささやかな涙を流した。そして目が醒めた。

HAPPY・BIRTHDAY

 学校の帰りに熱帯魚を買いに行った。途中で友だちが銀色の自転車にグヮン!と跳ね飛ばされた。すると袋の中の熱帯魚が空高く飛んでいって、夕焼け空に吸い込まれてしまった。家に帰ると僕の水槽が盗まれてなかった。その時、あの自転車に乗っていたのがエンゼルフィッシュであったことを思い出した。友だちの望遠鏡で空をさがしたら、羽の生えたネオンテトラの群れが赤と青に輝きながら空を泳いでいるのが見えた。はっと気がついて友だちの水槽を見に行くと、オレンジ色のグッピーの子供がポコポコ飛び出てくるのが見えた。

水槽の時間が進んでしまった話

 義姉さんが誕生日プレゼントにダイヴァーウォッチを買ってくれた。
「これで洗濯しちゃっても大丈夫」と義姉さんは言った。
「ありがとう」と僕は言った。
 でもそのダイヴァーウォッチは僕には少し重すぎたので、新しく買った熱帯魚の水槽に沈めておいた。ところが一週間したら、パールグラミーが全部死んでしまった。友達に聞いたら、彼は怒って言った。
「時間が違うんだもの。当たり前じゃないか」
「え?」僕は首をひねった。「どういうこと?」
「人間と魚は全然時間の単位が違うんだ」彼は向かい合わせた手のひらの間を広げて、時間が伸びるジェスチュアをした。「人間と一緒にしちゃったら、魚なんかあっというまに寿命が尽きてしまうさ。ちゃんと本に書いてあったろう」
 僕は慌てて家に帰り、すぐにそのダイヴァーウォッチを引き上げた。でも水槽の中の時間はなかなか元に戻らなかった。おかげで水草は異様に成長し、スネールばかりやたらに増えてしまった。

侏儒の女の子の話

 ディズニーの新しいアニメーション映画を見に行かないかと女の子を誘った。
「映画よりもディズニーランドのほうがいいな」と彼女は言った。
「ディズニーランドより映画のほうがずっといいと思うけど」と僕は言った。
「だってアニメって子供みたいじゃない?」
「子供でたくさんだよ」僕はそう言って電話を切った。
 まったく! 自分が大人だと思っているのだ。僕は受話器のコードと一緒になってゲラゲラと笑ってやった。するとファックスが「ピーッ」と鳴って、印刷された紙がヂヂヂヂと出てきた。それにはこう書いてあった。
「プロテウスに誘い出されたホムンクルスは、ガラティアの玉座にふれて砕け散った」
 僕は朝早く彼女に電話して、ゆうべのことをあやまった。彼女はどうせ「こびと」だからと言って、不機嫌に電話を切った。

新月の黒猫の話

 新月の晩、金属性のナベシキがなくなってしまった。変だなと思ってあちこちさがしてみたけれど、不思議にどこにも見当たらなかった。やけに近所の猫が鳴くのでベランダから外を覗いて見たら、電線の上を銀色の魚が泳いでいるのが見えた。ぎょっとしてよく見てみれば、黒猫が僕のナベシキをくわえているのだった。なんだと思ってベランダから声をかけたら、途端に黒猫もナベシキもヒョイと見えなくなってしまった。慌てて消え去った方向を追ってみたら、真っ白な街頭の灯りに照らされるたび、ハッハッハッと輝きながら電線を飛びすさっていく魚のナベシキが見えた。僕は歯を磨いて電気を消し、ベッドに入った。しばらくすると、遠くから星の降る音が聞こえてきた。三つの耳骨はその波長に共鳴し、僕は硬くて透明な薔薇の夢を見た。

だいだい色の匂いがした話

 奇麗な女(ひと)を二人見た。一人はメガネをかけたマチルダさん、もう一人は道化服を着たスペイン娘だった。メガネをかけたマチルダさんは、僕のもっていった書類を点検しながらいくつか質問をした。その時微かにキンモクセイの香りがした。うっとりしながら部屋を出ると、道化服を着たかわいいスパニッシュの女の子が眠っていた。オレンジ色の寝息がソファに染み込み、黄緑の涼しげな香りが漂っていた。僕は口笛で「あし笛の踊り」を吹きながらキャンパスを歩いていると、しばらくぶりの友達とばったり逢った。
「そのよい匂いはなんて言うんだい?」と彼は訊いた。
「ポーチュガルさ!」僕はそう言ってごまかした。

透明な階段にぶつかった話

 夜中に長い歩道橋を歩いていたら、何かの角がゴスッ! いきなり頭にぶつかった。瞬間赤紫のロドプシンが網膜一面に飛び散り、ヤカンのようになった頭を抱えながらこれはいったい何なのだろうと考えていた。しばらくその辺の空間をさがしてみても、特に何も見つからなかった。痛みも引いたので諦めて行こうとしたが、ふと何かが閃いてその場で飛び上がってみたら、何かに手が触れた。懸垂の要領で乗ってみると、どうやら透明な階段のようだった。手で探るとだいぶ上のほうまで続いているようだった。その間にも、透明な階段は風になびいてジリジリ動いていった。そしてもう歩道橋から離れてしまう、というすんでのところで飛び降りた。そこからしばらく見上げていたけれど、きらきら輝くビルの窓明かり以外何も見ることはできなかった。

羊の群れに巻き込まれた話

 無数の真っ白な羊たちが、宵のキャンパスを大量に埋めつくしていた。群青の空には半月が輝いて、羊たちの白い巻毛をぼんやりと浮かびあげていた。閉館になった図書館から出てきたばかりの僕は、アッというまにその羊たちの群れにとらわれた。ところがこの羊たちの毛皮はちっともゴワゴワしていないで、かけ布団のように軽やかな触れ心地だった。僕は羊たちにもみくちゃにされながら、どこへともなく移動していった。やがてうとうととし始め、ついに意識を失い、気がつくと一人で石畳の道路に寝転んでいた。起き上がるとカンガルーに縁取られた玄関マットが見えた。その小さな店の中には一人も客はおらず、がらんとした部屋の隅に「テンダー・イズ・ザ・ナイト」のペーパーバックを読んでいる主人がいるきりだった。席に座るとその主人は何も言わずにカティーサークのオン・ザ・ロックを作った。飲み終わって勘定を払い、店を出るとそこは深夜の見慣れた風景だった。振り返るとそれは僕の部屋のドアだった。

つむじ風に巻き込まれた話

 星空の高層ビル街を足早に歩いていたら、突然風のないつむじ風に巻きこまれた。それはヒュワッと僕を包み込み、翻弄した挙句、アッという間に飛びすさってしまった。しばらく呆気にとられている間も、周りの人は何も気づかぬように僕をつき飛ばし、追い抜いていった。再び歩き出そうとするといつのまにか懐中時計がポケットから飛び出し、金鎖にブラリブラリと揺れていた。何気なくふたをあけて時間を見てみたら、ザアッと奇妙な感じがした。すぐに走って行って、広場にあるギリシャ文字の時計を見た。それで僕の時計が十三分も進んだことを知った。ハッとして見上げてみたら、無数の風のないつむじ風がヒュルリルーリと飛びかっているのが見えた。しばらくそればかりが気になって、帰り道に七回も自分の足に蹴つまづいてしまった。

上京した友達の話

 高校のとき仲の良かった地元の友達が遊びにきた。レストランで食事をしようと言ったら、彼は驚いて言った。
「冗談じゃないよ」と彼は言った。「僕はサンダルなんか食べれない」
「サンダル?」僕は驚いて言った。
「だってみんなサンダルを食べてるじゃないか」
「そんなの食べるわけないじゃないか」僕は唖然として言った。
「だってサンダル以外に食べれるものなんか何もないぞ」と彼は言った。
「そんなこと言うなら」と僕は怒った。「サンダルでも食べてればいいさ」
「だから食べれないって言ってるだろう」彼はカバンを地面にたたきつけた。
「文句があるなら」と僕は怒鳴った。「東京なんか来るな」
 彼はかんかんに怒って帰ってしまった。

片耳が聞こえなくなった話

 朝起きてシャワーを浴びていたら電話が鳴った。水びたしで電話に出ると、「プーッ」といった。慌ててバスルームに戻り、シャワーに耳を当てると「モシモシ、モシモシ」とくりかえしていた。僕が「なんですか、いったい?」と尋ねると、「そんな態度ってないだろう」と怒って切ってしまった。それから一週間水道が止まってしまったので、水道局に苦情の電話をかけた。そうしたら同じ人が出て「シャワーに電話をするな!」と言った。僕はさすがに腹が立って「水が出なくて困る!」と怒鳴ってやったら、いきなり電話から水が噴き出してきた。鼓膜まで水浸しになってしまったので、耳鼻科に行ったら耳の穴にフェネックキツネが住んでいた。「大きな耳ですねえ」と医者が感心して言った。

WHITE CRISTMAS

 どうせ東京は雪が降らないからといって、友達と夜のスキー場に出かけた。どこに行っても恋人同士ばかりで、僕たちまで恋人同士になってしまったような気がした。リフトに乗っていたら、妙におかしくなって大声で笑いだしてしまった。すると突然ロープが凍りついて急ブレーキがかかった。僕はリフトから投げ出され、一回転し、あおむけのまま下に落っこちた。濃紺の澄んだ空がはるか遠くに見え、強い水銀灯の明かりが夜空をつき抜けていた。リフトに座った極彩色の尻が延々と並び、ロープが巨大なみたらしみたいに間を貫いていた。僕はあっけにとられて見とれていたら、バホオッ! ものすごい音がして何も見えなくなった。どこかで巨大な笑い声がこだました。僕は青白く染まった雪の中から、紫に輝く月をぼんやりと眺めていた。

傘のかけた呪いの話

 スカイブルーのとてもいい色をした傘を見つけた。それを買って家に帰ると、今まで使っていた古い傘が小さな声で歌いだした。
「恩知らずのジークフリート…」
 次の日、買ったばかりの傘をもって自転車に乗っていたら、ボキッ! 突然首から下が折れてしまった。頭に来たので帰りに紺色の傘を買って家に帰ると、またその古い傘が歌いだした。
「恩知らずのジークフリート…」
 僕は知らん顔で紺色の傘をさしてご飯を食べに行った。店から出てくるとその傘が盗まれてなかった。仕方なしに違うこうもり傘をかわりにさして帰ってきた。しかし一週間後の雨の日、近くのスーパーに行くとまたもやそのこうもり傘はなくなっていた。

時間が飛んだ話

 新幹線で「銀河鉄道の夜」を読んでいたら、どこかから猫の声が聞こえた。暗闇の外を真っ白い光が筋を曳いて流れていき、隣の奇麗な女の子は長い髪を垂らして眠り込んでいた。猫は低い声で単調に鳴き続けていた。その時、一瞬だけ車内の電気が消えた。それはほとんど誰も気にしないくらい一瞬のことだったけれど、僕にはなぜか奇妙なものに感じられた。その時、さっきまで執拗に鳴き続けていた猫の鳴き声がもう聞こえないことに気づいた。すぐに外を捜してみたけれど、流れさっていく光の筋以外、何も見つけることはできなかった。ときどきガラス窓を引っかくような音が聞こえたけれど、猫の声はもう何も聞こえなかった。僕の中から聞こえてくる音以外、すべてはかき消された音の向こう側にあった。

流行に飲み込まれた話

 朝方の金属バットみたいな冷気の中を自転車で走っていたら、電信柱が逆立ちしているのに出会った。駅の構内を歩いていたら、線路の枕木が「前にならえ」をしていた。電車の中では吊革が側転をしていたし、座席はストレッチの真最中だった。自動改札はバック転の練習をしながらやかましい声で自分を罵っていた。歩道の交通標識は太極拳の型をやっていた。大学の立て看板はいきなり蹴上がりをやって、案の定背中から落ちた。僕は無性に空手がやりたくなって、後ろ回し蹴りを打った途端にひっくり返った。それでまだ自分が部屋にいて、目覚しを抱いたまま動くことができないでいることに気付いた。体はびくとも動かなかった。ベッドの中は蒸気みたいなのに、背中だけ氷のように冷たかった。それは僕の背骨から生えた無数のつららが床に深々と突き刺さっているためだった。

バナナに自転車をとられた話

 山吹色の自転車で走っていたらステンッ!と転んでしまった。見ると濡れたマンホールに緑色のバナナが寝転んでいた。
「あの朝、一番に出てきたとこだ!」とバナナが怒鳴った。
「なんだって?」
 するともうバナナは僕の自転車に乗って走り出してしまった。
「こら! まて!――――」
 僕が追いかけると、バナナは自分から皮をはぎとって僕の足もとに投げた。それを素早くよけると、バナナはまた皮をはいで投げた。僕は全部よけた。皮をむいたバナナの中には何も入っていなかった。自転車だけが一人で走っていってしまった。僕は茶色くなったバナナの皮を全部集めてごみ箱に捨てた。結局自転車は帰ってこなかった。

猫が落とし物をした話

 天気のよい土曜日に白黒の猫が遊びに来た。モーツァルトのコンチェルトに魅かれて電線から飛び降りてきたのだ。その猫はベランダからしきりに部屋の中に入りたがった。
「そこでも聞こえるだろう?」僕は熱帯魚を心配して言った。
「もっとちゃんと聞きたいんだもん」猫は鼻を伸ばして、窓際に置いてある水槽のにおいを嗅いだ。「この魚、とてもきれいね」
「ありがとう」僕はますます心配になった。
「ねえ」猫はまた尋ねた。「中に入ってもいい?」
 僕はコーヒーを入れるためにお湯を沸かし始めた。振り返ると、猫は返事も待たずに部屋の中まで入ってきた。僕はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。そのとたん電動ミルの音がサイレンのように響いた。猫は飛び上がり、目を白黒させて逃げていった。僕はセロひきのゴーシュみたいにげらげら笑った。しばらくしてふと見ると、猫が何か忘れ物をしていったことに気づいた。それは魚の形をした銀色のナベシキだった。

皆既月食と新しい友達

 梅雨の合間の晴れた夜、ぼんやり近所を散歩していた。淡い満月が奇麗だった。僕はカンガルーの玄関マットの店に入った。「グレート・ギャツビー」を読んでいる例の主人と、あとは小さな子供が一人いるきりだった。それは金色の髪をした美しい少年だった。彼の目の前には細い瓶に入った黄金色のビールが置かれていた。突っ込まれたライムの緑が彼の瞳に映っていた。琥珀色の光の中で、それは紅茶の中に溶け残った砂糖粒のように見えた。僕は無性に話しかけたくなった。
「子供の癖に」僕は瓶をつかんで言った。「生意気だぞ」
 彼は僕を見上げた。澄んだ目がきらりと光った。
「なんだと?」と彼は言った。
「やるか?」と僕は言った。
「やれやれ!」と主人が言った。その途端僕らは店を放り出された。
「見ろよ」しばらくして彼が言った。
「月食だ」僕は答えた。
 我々は欠けていく月を見つめていた。星々の光は濁り、空気は澱んでいた。でも、彼の瞳は変わらず澄んだ光をたたえていた。僕らは自動販売機で買いこんだビールを飲みながら道端でいつまでも話し続けていた。

雪が降り積もった日

 久しぶりに遠出しようと思ったら雪が降った。バスは途中で動かない。電車はやってこない。大勢の人が待ち惚けをくっていた。それで仕方なく、僕はブラームスの全集を買って帰ることにした。CDを聞きながら歩きだすと、分厚い雪に埋めつくされた純白の街が少しずつ遠のいていった。ハイドンは笑いながら「そのうちいいこともあるさ」と励ましてくれた。モーツァルトは「哀しいときに哀しい顔をするのは子供でもできるんだから」と慰めてくれた。ベートーヴェンは口をゆがめて「気合いがたらんぞ」と肩を叩き、マーラーは「結局そういうものなんだよ」とため息をついた。たくさんの死者が友達だった。僕は知らない間に好きになっていた。留まれないこの街が大好きになっていた。
                                     
(了)

©Muneo Oishi 1996

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