最も軽視されてしまう「自由」のその本質

Don't look into the sun

こんにちは、喜龍一真です。

前回は幸せの三元素のひとつ「愛」について書きました。補足しなければならないことはたくさんあるのですが、愛については以前から何度も触れてきているので、まずは次に進みたいと思います。

「自由」は、幸せの三元素の中でもっとも本質的な部分でありながら、現代の日本においては最も軽視されている部分でもあります。多くの人は自分が「自由でない」とはあまり感じていません。自分が幸せ・幸福を実感できなかったとしても、その原因が「自由」にあるとは気づいていないことがほとんどです。

我々が幸せになりたいと思った時、その矛先は「愛」か「豊かさ」に向けられます。「愛」とはわかりやすく言えば、恋人であり、結婚相手であり、結婚そのものであり、そのさきにある家族であったりします。「豊かさ」とは、ずばり「お金」です。

結婚とお金。これが長年、幸せの二大必須要素でした。ところがこれが、最近の若者の中では大きく変わってきています。彼らにとって最も大切なのは、「愛」すなわち結婚ではなく、「豊かさ」すなわちお金でもありません。「自由」なのです。

自分の自由を差し出すくらいなら、結婚などしたくない。恋人もいらない。一人でいいと思うのです。お金に関しても同様です。就職して自分の自由を差し出すくらいなら、お金などいらない。自分だけ食べていければいい。だからフリーターやニートを選択します。

彼らは「自由」を守るためには、「愛」などいらない、「豊かさ」などいらないと考えているのです。

戦後世代からから団塊世代までの人にとって、もっとも重要だったのは「豊かさ」でした。

戦後の貧しさにうんざりした当時の若者たちは、なによりも豊かさを追い求めました。その途上で、資本主義社会の本質にある「不平等」にぶちあたり、左化・共産化していったのも、裏を返せば「豊かさ」に対する逆恨みとも見ることができます。

実際この世代の人々が、バブル経済時代の立役者でもありました。もっとも「豊かさ」に対し、貪欲な世代とも言えるでしょう。

その後、80年代~90年代のバブル時代の憧れだけを刷り込まれ、バブル崩壊後に社会人となった「ハズレクジ」組が来ます。彼らはもともと、豊かになりつつある時代に育ったため、団塊世代のような豊かさに対する貪欲さはありません。

しかし、高度経済成長からバブル経済まで、好景気に沸く中で、親世代はすさまじく忙しい生活の中で、殺伐とした家族関係、人間関係にさられるようになり、「愛」を切実に求める世代となっていきました。無数のラブソングと、ラブコメ漫画が大流行しました。

彼らにとって、幸せは「愛」であり、そのために「豊かさ」を必要としました。

このように「豊かさ」と「愛」に偏向した世の中になっていくにつれ、もっとも軽視されたのが「自由」でした。「自由」は「愛」と「豊かさ」のために、削り取られ、差し出されていったのです。

こうして、2010年代の現在の日本という、もっとも「自由」を軽視する世界ができあがっていったわけです。

ここで、疑問を唱える人もいるでしょう。「自由がないとはどういうことか。日本ほど自由な国はないではないか」と。

そのとおりです。諸外国と比べても、日本人ほど国家から自由を保証されている国民は少ないと言ってもいいでしょう。憲法の中には、いくつも「自由」について書かれています。

Wikipediaの「自由権」について参照すると、

「日本国憲法においては、内容は経済的自由権、精神的自由権、人身の自由に大別することができる。精神的自由権には、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由、学問の自由などが含まれる。経済的自由権には、職業選択の自由や営業の自由、財産権の保障が含まれる。人身の自由は、奴隷的拘束の禁止や不当逮捕などの禁止による被疑者・被告人の人権保障(罪刑法定主義・適正手続)などからなる」とあります。

我々は精神的に自由であり、何を考えても、何を信じても自由です。表現するのも自由、学ぶのも自由です。経済的にも自由であり、仕事を自由に選べます。商売をしたって構いません。

いくらお金を稼いだって自由です。存在としても自由であり、何者からも拘束されたり、奴隷のように扱われることはありません。そのように、憲法レベルで保証されているのです。

では、実際に我々は、ここにある通り、自由でしょうか?

そもそも、自由とは何なのでしょうか?

自由とは「自分」に「由来」すると書きます。人生におけるすべての選択において、「自分」だけが「理由」なのだということです。

つまり、すべての選択を、自分の意志で行うこと。それが「自由」の本質です。逆に言えば、選択を自分の意志ではなく、別の何かにしたがって行う場合、「自由」ではないということになります。

では具体的に、今の自分の周囲を見渡してみましょう。あなたの人生の全ては、あなたの意志で選ばれているでしょうか。

住んでいる場所は? 家は? 部屋は? 家具は? 家電は? 乗り物は? 服は?
付き合っている人間関係は? 属している学校、職場は?
毎日を過ごしている日常のスケジュールは?
収入は? 家族は? 妻や夫、恋人、パートナーは? 友達は?
両親は?
体は、心は、魂は?
運命は、宿命は、環境は?
生死は?

このように自分という存在を作り上げている現実を見回した時、あなたが自分の意志で選んだものがどれほど少ないか、少しわかっていただけたでしょうか?

安彦良和の「アリオン」という物語の中で、主人公のアリオンは、父殺しの運命から逃れようと自殺を試みます。しかし、黒の獅子王は「やれるものならやってみろ」といいます。アリオンは喉に切っ先を押し当てますが、結局死ぬことができません。その時獅子王はこう言います。「人に自由などいかばかりもない」と。

私達は、確かに国家から自由を保証されています。そのおかげで、理不尽な国家からの強制に従う必要はなくなりました。少なくとも、戦前のように、紙切れ一枚で戦士となり、国のために命を差し出さねばならないような時代ではありません。

しかし、その根底に流れているものは、何も変わってはいないのです。

紙切れ一枚で学校が決まり、職場が決まり、あなたの運命が決まります。それが気に入らなければ、いつだって破棄できるのに、実際殆どの人はその紙切れに従ってしまいます。

私達は大人になるに連れ、自由を失ってきました。住む場所は、自分が好きだから選んだのではなく、仕事の関係でとか、親の関係でとか、生まれながらにしてとか、仕方なくそこにいる場合がほとんどです。自分で好きな場所を選んだわけではありません。

好きな高校、好きな大学、好きな仕事、好きな職場を選べるのは、一部のエリート、勝者だけです。そこから脱落した人は、少しずつ自分の好きを諦めて、自由を失っていきます。

お金のために、自分の好きを諦めます。仕事のために、自分を諦めます。家族のために、自分を諦めます。このようにして、私達は自由と引き換えに、お金を得、家族を得、愛を得ているのです。

それで人が幸せになれるなら、自由を差し出すことで引き換えに得られる愛や豊かさだけでいいなら、かまいません。

しかし、自由とは「自己愛」の極のことです。

自分を最も尊重し、人生を作り上げていくすべてを自分の「好き」で満たしていくこと。それが「自己愛」だとするなら、多くの人々は「自己愛」を捨て、自分を犠牲にすることで、はじめて「愛」を与えてもらえ「豊かさ」を得られると考えていることになります。

確かにあなたは、妻や夫を得て、子どもたちとともに生きれるかもしれません。仕事を得て、お金を得ることができるかもしれません。

でも、それではあなた自身がどんどん空虚になっていってしまいます。「愛」「豊かさ」のためには「自由」を失っても仕方がないと思っている限り、あなたは「自由」という名の自分への愛を失うしかなくなってしまいます。

だからといって「自由」を守るために「愛」「豊かさ」を諦めてしまったら、あなたはずっと貧しく孤独なままです。

なぜ、「愛」「豊かさ」と「自由」は相反するものだと定義するのでしょうか? 愛や豊かさと、自由はなぜ同時に成り立たないと考えてしまうのでしょうか。

この三次元は有限だと思っているからです。

実際にそのとおり、三次元の世界は有限です。すべての人が、自分の自由を優先してしまったら、奪い合いが起こってしまうからです。奪いあい、勝ち残ったものだけが成功者となり、あとはみな敗者になるしかない世界です。それがアメリカという国の本質です。自由という名の競争社会です。

あなたが自由になれば、そのぶんだけ他人が不自由になる。それが有限な社会の必然です。

日本は農耕社会ゆえ、そこまでの競争社会は歓迎しません。だから、一人ひとりが少しずつ我慢をしあうこと、自由を差し出し合うことで、はじめて世界は成り立っていくと考えるのです。だから、日本人は少しずつ自由を差し出し合って生きてきたわけです。

ところが、21世紀になってその状況は確実に変わってきています。

以前のような、皆が少しずつ我慢しあう時代は終わりをつげようとしています。あらゆる不文律が通用しなくなってきているからです。

ITの進歩により、情報はだれでも得られます。「いちぬけた」する人はいくらでも出てきます。自由を強く求める意識がさらに強まるにつれ、これまでのような「以心伝心」による「総我慢」世界は如実に崩壊していくことになります。

それは一見すると、日本の社会そのものが農耕社会から競争社会に移ったかのようにみえるかもしれません。しかし、それもまたアセンション・次元上昇という大きな変化を前提にすれば、むしろ歓迎すべき出来事だとわかります。

高次元という名のフリーエネルギー、無限のエネルギーが覚醒し、三次元の私達とともに働き出した時、「自由」の本質ともいうべき高次元存在は、三次元的な制約を悠々と超えていこうとします。無尽蔵のエネルギーにつながっている彼らは、他者への遠慮など不要だと理解しているからです。

すべての人が、無限のエネルギーに触れることができるなら、なぜ自由になることをそれほどまでに恐れるのか。会社、組織、お金、家庭、地域、環境などなど、あなたを束縛し、自己実現を阻害するものがあったとして、なぜその場にいつまでもとどまり続けるのか。

なぜ、愛や豊かさを得るために、自由を差し出してしまうのか。そう、問いかけ続けてきます。自由になるために、勇気を持って前に出ることを促してきます。抵抗すればするほど、苦しくなるのは当然です。

幸福のために、「愛」と「豊かさ」が必要なのはだれにでもわかります。しかし「自由」の重要さはなかなかわかりにくいのです。

高次元とつながり「自由」になればなるほど、「愛」「豊かさ」はむしろはるかに純度の高いものが得られるという力強いメッセージに対し、どこまで本気で信じれるかどうか。

それは三次元の常識と真っ向対立してきます。

自己実現にとって、就職はむしろ不自由の典型です。自営業、個人事業主、経営者となることのほうがはるかに効率がいいということになります。家族と離ればなれになる必要もなければ、満員電車に揺られる必要もありません。

これらは皆、三次元に対する「安定」神話をすべて諦めることでもあります。これは決して簡単なことではありません。「不自由」な世界から「自由」な世界へ移るには、相当の変容が必要となってきます。不安と怖れは強く襲いかかり、何重もの封印があなたの前進を邪魔するでしょう。

そのためには既存の人間関係も、切り捨てなければなりません。真の孤独と向き合う時だってやってきます。

それでも高次元の言葉を信じられるか。辛抱強く、自分の抵抗を手放し続けられるか。その長い長いトンネルを抜けなければ、開かれた自由の国にはなかなかたどり着けません。

それでも、その先に進みたいという方は、ついてきてください。

ではまた。

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