幸せと、この世界の美しさについて

From Above

こんにちは、喜龍一真です。

「求めよ、さらば与えられん」というイエスのメッセージについて、前回は触れました。

自分自身の「変化したくない」という執着が、あらゆる変化を押しとどめていると悟り、執着を手放したい、変化したいと願った時、はじめて自分の望む現実を創造することが可能になってきます。

しかし、ここで多くの人が困ってしまうのは、自分が何を望めばいいのか、そのモデルがないということなのです。

岡田自観は「すべての人が幸福を追い求めていることに疑う余地はない」と言っていますが、皆が幸福を追い求めているにもかかわらず、幸福とはそもそも何なのか、どのような状態なのか、それはどのような要素から成り立っているのか、何一つしっかりわかっていないのです。

幸福とは何かがわかっていないことさえ、気づかないままに、「お金があれば」とか「成功すれば」とか「欲しいものが手に入れば」とか「愛する人に出会えれば」とか、漠然とした期待にもとづいて、毎日生きているのが私達の実態なのです。

これでは、どの山に登るかをはっきり決めもしないで、なんの装備もなく、険しい山にのぼるようなもので、うまくいくわけがありません。

仮に登り切れたとしても、あなたがその頂上に達した時、満足できるかどうか、なんの保証もないのです。

井上雄彦の「バガボンド」で、まだ若い宮本武蔵が、無我夢中で上へ上へと険しい山を登っていく場面があります。やっと頂上について「やった!ざまあみろ!てっぺんだ!」と叫びます。

ところが、霧が晴れてくると、その山は幾つもある小さな山の一つに過ぎず、もっと高い山がいくらでもあることがわかってしまいます。

武蔵は、「天下無双」を求めてひたすら上へ上へと向かっていきますが、彼に言葉を与えるメンターたちは皆「天下無双などただの言葉」と言い続けます。でも、武蔵にはそれがわからない。

そして、父を超えるために「天下無双」を求めていたのですが、どこまで登ってもなんにもないと気づく時が来て、彼は徐々に「天下無双」を求めるのではなく、ただ剣技そのものの練磨の喜びを追求することへと変わっていきます。

ほとんどの人が「幸せ」を、このような雲の上の霧の向こう側にあるものと捉えています。

ただ漠然とした期待、恐れを克服したい、他人を見返したい、人に認められたいなどなど、これらはすべて「承認欲求」「制御欲求」「安全欲求」です。

「認められたい」「支配したい」「安心したい」という欲求は、結局のところ第三者とのパワーバランスでしかありません。

それ自体をどこまで追求しても、永久にはたどり着けません。

なぜなら、それはあなたとは無関係だからです。全部、他人を何とかしようとしているのです。自分を変えるのではなく、人を変えることによって、幸せになることはできません。不可能なのです。なぜなら、あなたの人生を作り出しているのは、あなた自身であって、他人ではないからです。

人から認められれば幸せになれるのでしょうか。人を支配すれば幸せになれるのでしょうか。答えは否です。それは、あなたの真の願いとは無関係だからです。

セドナメソッドの開発者・ヘイル・ドゥオスキンは、これらのネガティブな欲求は、むしろ自分が幸せになることを阻害する「執着」であるとし、手放すことを提唱しています。これは、仏教などでもいい続けてきたことです。

岡田自観の作った「善言賛辞」には「三毒を滅し、五濁を清め」という一節が出てきます。これは仏教の言葉ですが、三毒とは煩悩や無知、執着のことを指し、五濁とはそれに伴う災害や社会的な乱れのことを指しています。

幸せを目指しながら、幸せになれない理由は、幸せとは何かをしっかり理解せず、自己中心的な快楽や刹那的な欲望を満たすことだと信じてしまうことです。

これは、生理的な欲求を全面的に否定しているのではなく、創造的に快楽を受け取るためには、快楽を貪るのではなく、快楽をしっかり受け取ることのできる器を作らなければならないという意味です。

しっかりとした信頼関係によって結ばれた男女が、結婚して性的に満たされた生活を過ごすことは、何も悪いことではなく、むしろ素晴らしいことです。

しかし、性欲の赴くまま、相手をとっかえひっかえしてしまえば、結局それは自分や周囲を壊すことになるのは明らかです。自分の最も愛する人を、他人に奪われて嬉しい人など、一人もいないからです。

それを隠すために、嘘を重ね、不倫や浮気を繰り返すのは、悪魔とのじゃんけんと同じで、いつかは負けて、全てを失ってしまいます。

一瞬の幸福を得るために、全てを犠牲にしなくてはならないという価値観は、結局この世界はどこまでいっても幸せになどなれないという悲観論を前提にしています。

しかし、それは単にこの世界の法則を理解せず、迷いの中にいるからにすぎません。そのような無茶をしなくても、この世界は合理的に幸せになることは可能です。

私はこれらのことを高次元からの無数のやりとりの中で教わりました。

最初にこのメッセージが来たのは16歳の時だったと思います。それから約30年かけて、検証を続ける中で、この法則の全体のつながりを理解することができるようになりました。そして今、この法則は今の時点でかなり有効であると結論づけています。

おかげで、今私は自分自身を幸せだと十分に感じられるような現実を生み出せるようになりました。

この法則は私の子どもたちには、日々の私たち夫婦の生き方を通して伝えていることです。それを信じるも、信じないももちろん彼らの自由です。

しかしもし、自分が幸せから遠いと感じているなら、この世界の真相を知ることは、何かの助けになるかもしれません。私自身、暗闇のどん底にいた時、多くの人の言葉や作品が力になってくれました。そんな一助になればと願っています。

そしてこの世界が、決して悲観的で、救いがない、苦の娑婆ではないということを知っていただければと願っています。

宮﨑駿の「紅の豚」で、少女フィオが「綺麗。世界って本当に綺麗」と呟くと、ポルコ・ロッソはこう言います。「お前を見てると、世界も捨てたもんじゃないって、そう思えてくるぜ」と。

そんな言葉を残せればと思っています。

それではまた。

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