病気はすべて浄化作用なのか

Sun and Moon

こんにちは、喜龍一真です。

岡田自観のもっとも重要な教えの一つが「病気は浄化作用」と「薬毒」です。

昭和20年代に説かれた数多くの教えの中でも、この2つはとりわけ根幹とされている教えです。とはいえ、21世紀の現代人にとって、この説明はそれほど珍しいものではありません。とくに、健康食や自然食に関心のある人でなくとも「デトックス(排毒)」という言葉は一般化しています。

風邪は薬では治らないとか、発熱はウイルスを不活性化し、無毒化するために発生しているのであって、解熱すべきではないかとか、体を温めてゆっくり休めば自然に完治するとか、鼻水や痰などは悪化作用ではなく、排毒作用なのだから止めるべきではないとか、そういったかつては岡田自観オリジナルだった教えさえ、今は医師が普通にインターネットで説明している時代です。

しかし、昭和20年当時では、キチガイ扱いされるほど画期的だったのです。岡田自観は自分自身が無数の病気に苦しみながら、ほとんど薬が効かず、医者に頼ることををやめて、自然食だけで完治させた経験から、このような説を唱えるにいたりました。

さすがに、医師も薬もなしで自然放置だけでは厳しすぎるので、「浄霊」というヒーリング法も開発し、入信してお守りをかければ、手をかざすだけで、だれでも奇蹟的な癒しの力を発揮できると教えたのです。

そして、薬が病気を治すという考え方に真っ向対立し、医学を徹底批判することで、当時貧困で医療を満足に受けることができなかった多くの人々を惹きつけ、戦後大いに発展したのでした。

確かに「病気は浄化作用」「薬毒」という教えは、ある面では正しいのですが、すべてのことがそうであるように、ポジティブだけではなくネガティブな側面も持っています。「教え」とか、いわゆる「理論」というものは、どんなものであっても、+だけでなく-の側面を持っているものです。

例えばニュートン力学は確かに正しいですが、それは地球上の物理法則を説明する限りは、という制限がついています。

これだけでは宇宙のすべての事象を説明することはできません。

ニュートン力学ですべて説明できると考えてしまうと、宇宙では理解できない事柄がたくさん出てきてしまいます。すると、それらを説明できないということは、観測ミスか、目の錯覚であると断定して、切り捨ててしまったりするわけです。しかし、それでは看過できなくなったため、相対性理論や量子力学などの新たな物理法則が必要となってきたわけです。

科学であってもそうなのですから、これが宗教となればなおさらです。

本来宗教であっても、科学であっても、共通するところは、この世界の現象や仕組み、成り立ちをいかに現実の現象にあうように説明できるか、という点にあります。仮に、数学や物理法則が抽象的な数式の連続であったとしても、それらはすべて「現実と齟齬がない」という地点に基礎を置き、そこに正確に建物を組み上げるような構造を持っています。

自然科学であれ、人文科学であれ、社会科学であれ、宗教であれ、その理論が現実に合っていなければ、本来意味はありません。

しかし、自体はそう単純ではありません。このような理論、あるいは信仰は、徐々にそれ自体が正しいという性格を帯びてきます。すると、それを疑ったり、否定すること自体、「悪」ということになりかねないのです。

現実とはどう見ても合っていなかったり、現実そのものの状況が変化して、理論や信仰自体が合わなくなってきても、その矛盾に目をつぶり、現実を無視して、理論や信仰の正しさに固執し、現実の解釈をねじ曲げてしまったりします。

これを教条主義もしくは原理主義といいます。

わかり易い例は、大戦終盤の日本です。「神風が吹く」と信じて、アメリカの空襲に対して、竹槍で応戦する状況。どう考えても、現実に合致しているわけがないのに、それでも「日本は負けるはずがない」という信仰を押し通すために、軍部は「勝てるはずがない」と言う人達を片っ端から口を封じ、国民全員が玉砕してでも、その信仰を捨てようとしませんでした。

オウム真理教が、ノストラダムスの大予言(1999年に人類が滅びる)は絶対的な真理と考え、それが現実にならないのであれば、自分たちで滅びを起こそうと考え、テロを実行したのも同様です。

これこそまさに、教条主義・原理主義の成れの果てです。

現実を説明するための理論や原理が、いつしかそれに固執する人達が現れ、それ自体の矛盾や陳腐化、古さを認められなくなってしまっては、進歩も発展もあり得ません。

岡田自観の「病気は浄化作用」や「薬毒」には、たしかに正しい面もあります。

しかし、「すべての病気は全部浄化」「薬は全部毒だから一切体に入れない」といった原理主義的な解釈が横行すると、昭和20年代とは時代背景も環境も大きく変わった現代では、単に不適切で通用しないだけでなく、そのために命を失いかねない危険さえあるのです。

実際、岡田自観の教えをまともに信じて、「浄化」だからといって、重篤な病気にもかかわらず、医者に掛かることを拒絶し、薬も一切否定したために命を失ってしまった信者も、実際に見たことがあります。

長期間「浄化」だからと精密検査を受けず、「浄霊」だけにすがって何十年も良くならなかった人が、死にかけて検査を受けたら、原因がわかり、手術一つで治ってしまったという事例もありました。

なにより、私自身が幼少期より「薬は毒」「医師は敵」と洗脳されて育ったので、結核菌に侵され、両方の肺が原型を留めないほど侵食されるほどになっても、医師や薬を拒絶したことから、あわや死にかけるほどの重症になってしまったのでした。

岡田自観は、無数の教えの中で「結核恐れるに足らず」「薬では治らない」と再三語っており、私自身をそれを鵜呑みにして信じていました。

しかし、それが説かれたのはまだ抗生物質のない時代のことでした。ストレプトマイシンも、トラマイシンもない時代のことです。結核で多くの若者が、隔離され、命を失っていた時代にあって、結核は今の癌以上に死の病でした。

その中でのかすかな希望としての言葉であって、すでに結核の特効薬のある時代に信じるべき教えであろうはずがありません。

にもかかわらず、今もなおその教えが、「正しい」とされてしまえば、不真面目な信者なら適当にスルーするでしょうが、まじめな信者は命の危険にさらされることにもなるのです。

私は、自分自身の病気が薬で治ったことにより、信仰そのものの根底が崩れてしまいました。

それは、ちょうど戦前「天皇陛下は神である」と本気で信じていた人が、天皇の人間宣言を聞いた時と同じような感覚だったのではないかと思います。今まで信じていたことのすべてが嘘で騙されていたのだと知り、足元が崩れ落ちていくような、底のない虚無に飲み込まれてしまうような、そんな経験をしました。

そこから、立ち直るまでにはかなり長い時間を掛ける必要がありました。

その中で、私は岡田自観の教えを一つ一つひも解き、マルかバツかを振り直す必要がありました。すべて捨ててしまったら、何もなくなってしまうと悟った私は、自分をもう一度作りなおすためには、真実と思っていた信仰を全部解体し、受け入れるべきものと、捨て去るべきものに、一つ一つ選り分けたのです。

病気は浄化作用、という教えは、風邪や下痢などの軽度の病気であるかぎりにおいて、正しいというにすぎません。

では、アトピー性皮膚炎などのアレルギーはどうなのか。癌、白血病などの遺伝子の破損が原因の病気はどうなのか。脳溢血、心臓病、肝硬変などの病気はどうなのか。これらは皆、浄化で説明できるはずがありません。生活習慣、ストレス、環境問題など、多くの問題の反映であり、それを治療するには医師の協力が不可欠です。

薬にしてもそうです。昔の薬と今の薬は、明らかに異なります。

日本ほど、副作用の少ない薬はありません。もちろん、薬は基本的に化学薬品であり、体にとっては異物です。自然ではないものをすべて毒というなら、たしかにそうでしょう。しかし、薬がすべての病気のもとになっていると説くのは、心の病をすべて性欲の問題としたフロイトと五十歩百歩です。

問題なのは、どちらも極端すぎることなのです。医療や薬に依存し、必要のない薬を取ることがいいはずがありません。とくに高齢者はその傾向が強いです。いまはむしろ、こちらのほうが社会問題です。

だからといって、薬を一切拒否して、不健康な状態を健康と錯覚して苦しみ続けるのも、私にはただの自己満足にしか見えません。これはいわゆる自然派とか、有機系とか、健康系の人に多く見られます。

信頼のできるお医者さんを持ち、しっかりと検査を受けて、必要な医療を必要最小限受けていく。病気になれば、その原因をしっかり把握し、問題があるのであれば、薬の助けも借りながら、生活自体を変えていく。

要は当たり前のことを、当たり前にするだけのことなのですが、実はそれが一番難しいのです。

岡田自観は「伊豆能売思想」を説きました。これは、「右によらず左に寄らず、縦によらず横によらず、縦横結んで真のものと成る」という思想のことです。これは、私が捨てずに残した方の教えになります。

他に「決めて決めない」という教えもあります。これは常に、現実に即して信念を臨機応変に変えよということです。「宗教プラグマティズム」という教えもあります。これは「宗教行為主義」すなわち、宗教は現実に即してなんぼであるという教えです。

教祖自体がこれほどまで教条主義を否定しているのに、なおも教条主義に陥ってしまうのはなぜか。

それほど、人は「完全無欠」のものを信じたいのでしょう。残念ながら「完全無欠」などあり得ません。自観自身「完全など望み得べくもないが、完全に向かって一歩一歩歩んでいく修養。これこそ信仰の妙諦である」と述べています。

これらはすべて「陰陽眼」の骨格というべき思考法です。

物事には、一方だけで全てというものはありません。常に表があれば裏があり、光があれば闇があり、プラスがあればマイナスがあります。その両面を、切り分けるのではなくいかに結んでいくか。このような視点の中から、現実と一体となった真実が見えてくるのではないでしょうか。

私は、さまざまな思考の果てに、今はそう考えるようになりました。

それではまた。

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