虹の端の金の壺

IMG_0969

こんにちは、宗生です。

雨上がりに日がさすと、いつも虹を探してしまいます。7色の虹には色んな意味がありますね。

箱庭のオブジェクトの中にも、3つの虹があります。この虹の足元は、片方が雲に、片方が金の壺になっています。

ロンドンの箱庭研修のとき、センターにあったもので、私もよく使いました。それで、先生がそのオブジェクトの意味を教えてくれたのです。

イギリスでは「虹の端には宝物・金の壺が埋まっている」という俗信があるそうです。

http://www.ne.jp/asahi/wonder-island/wahhahha/engbg/potgold.htm

オードリー・ヘップバーンが主演した「ティファニーで朝食を」という映画で、オードリーが歌う「ムーンリバー」という有名な歌がありますが、この歌詞の中にも出てきます。

http://www.reelclassics.com/Movies/Tiffanys/moonriver-lyrics.htm

余談ですが、「ティファニーで朝食を」の原作となった小説を書いたのは、トルーマン・カポーティというアメリカの作家ですが、村上春樹さんが大好きなアメリカ文学作家の一人ということで、翻訳もなさっています。

http://www.amazon.co.jp/dp/410209508X

そんなわけで、虹の話に戻しますが、虹の七色というのはご存知のように、光のスペクトル分光によって見える自然現象です。

私達が見ている「可視光線」は、基本的にこの赤から紫の7色の範囲内しか見ることができません。紫外線というのは、紫より波長が短いからですし、赤外線というのも、赤より波長が長いからそう呼ぶわけで、そこからは見えない光になります。

私達の視覚は、この7色の光を感受して、脳で像を結んでいます。そして、その光の映像を自動的に脳が分析し、それが何であるかを認識しています。

光と色によって区別されたなにものかを、形象として区別し、さらにその形象にそれぞれ名前をつけることによって、概念に結びつけています。

例えば、緑色のなめらかな曲線を描く、無数の物体を「植物」と認識します。それだけでなく、例えば「けやき」とか「杉」とか、種類まで認識します。

家の中で、周りを見渡しても、あまりに自然にそれが何かを理解しているので、なかなかプロセスに気づきませんが、「色→形→名前→概念」という自動化されたプロセスが、常に高速で働いています。

これが、例えば生後数ヶ月の赤ちゃんだったり、ずっと目が見えなかった人が手術を受けて急に見えるようになったとすると、周囲がどのように感じられるか、想像できるでしょうか。

おそらく、意味の分からない膨大な色と形の混乱にしか見えないでしょう。一つ一つの形象を区別できず、それらが意味するものが何かを理解することもできません。ただの色彩の洪水のような感じです。

私達は、最初まずそれらに名前をつけ始めます。

にこにこ笑っているやさしい人に「お母さん」と名づけ、お腹を満たしてくれる甘くておいしい液体に「おっぱい」と名づけ、さらに目に見える物一つ一つに名前をつけ、そして概念を結びつけていきます。

このようにして、何十年も過ごしてきた私達は、何も意識することなく、当然のように目から入ってくるものが、何を意味するのかをたちどころに認識できるようになっています。

椅子、テーブル、床、ドア、電灯、パソコン、電話などなど、周囲を見渡せば、なにかがすぐにわかるでしょう。車の運転ができるのも、常に目から入ってくる情報をもとに判断できるから、ハンドルとアクセルを操作して車を安全に動かせるわけです。

それは、自分でも忘れてしまっていますが、長い年月訓練してきたおかげで、外界から入ってくる光を認識できるようになり、その認識をもとに外界を理解し、行動しています。

私達は外界を見ることには慣れています。

では、内界はどうでしょうか。

みなさんは、内界からやってくる「視覚」とよく似た色彩の混乱を見たことはありませんか? 目をつぶっているのに、色鮮やかな天然色の映像を見たことはありませんか?

例えば、夢がそうです。

夢は、目を使っていないはずなのに、見事に視覚化されています。中には白黒という人もいますが、多くの人はカラーで夢を見ているはずです。多くの人は夢を、外界の延長線上で捉えていますが、よくよく考えれば、これほど奇妙な現象はありません。

目を使っていないのに、どうして色が見えるのか。

もちろん脳が色を再現するからであって、目が色を再現させているわけではないからです。ちょうど、デジカメのCCDが光を受信するだけで、実際に映像にするのはCPUを介したディスプレイなのと同じです。

では、私達は、外界だけではなく、内界のなにものかにたいしても、色彩として感じる能力を持っているということになります。しかし、当然ながら、外界と内界は全く異なる世界です。

外界は三次元であり、物理的な法則と、時間と空間による制限を受けています。
いっぽう内界は多次元であり、物理的な法則も、時間と空間による制限も一切ありません。無限大に自由な世界なのです。

しかしながら、私達は生まれながらにして、訓練してきた外界に対する感受性とは反対に、内界に関しては全くと言っていいほど訓練していません。それどころか、ほとんど閉ざしてしまっています。

しかし、その感覚の萌芽だけは、すべての人に備わっています。その証が夢なのですね。

このように考えると、オーラといった内面で初めて甘受できる感覚も、さらに聴覚や嗅覚、味覚によく似たより高次の感覚(直感に近い感覚)も、決して遠くにあるものではなく、今ある感覚の延長線上にあるということがわかります。

これらの眠ったままになっている感覚や感性、それらの主体である高次の存在そのものを一つ一つ覚醒させていくとき、眠っていた感覚が少しずつ目覚めていきます。

しかし、目覚めてもすぐにはそれがなにか理解できません。ちょうど、赤ちゃんがすぐには外界がわからないのと同じです。

それは内面で感じる様々な色彩や形象に関して名称を知らず、概念と結びついていないからです。

シュタイナーの人智学やブラヴァツキー夫人の神智学などが、そういった内面で感じ取る様々な情報に関して、一つ一つ事細かに名前をつけているのは、そういった事情からなのです。

だから「エーテル体」「アストラル体」「コーザル体」などといった耳慣れない言葉や概念が大量に出てきますし、しかもあっちとこっちで言ってることが違っていたりするので、最初はとても困惑し、難しいとさじを投げてしまいます。

しかし、一つ一つ順を追って覚醒しつつ、その状態に慣れながら、名称と概念を身に着けていくことで、徐々に内面の区別ができるようになっていきます。4つのファンクション「思考」「感情」「感覚」「直感」を外面の理解だけではなく、内面の理解のためにフル活用できるようなっていくわけです。

現在の地球上の多くの人たちには、物理的な文字や言葉でしか伝達ができないという制限があるため、物理的制限を受けない領域の表現には適っていません。なので、人によって、学派によって、言葉や概念の意味合いが異なることはよくあることです。

なので、まずは自分の中の感覚をよく観察し、触れながら、納得のいく説明を知った時に受け入れていけばいいのです。

「自分にはわからない」と言って、わかっていそうな人の言うことを鵜呑みにすれば、自分の自由は失われてしまいます。だからといって、自分の感覚に対する理解を、不慣れなままで安易に決め付けすぎるのはもっと危険です。

感覚をよく見ながら、自分で安易に理解せず、納得のいくまで探し続けるとき、自分の感覚にしっくり来る言葉や概念に出会うことがあります。

高次の存在のもっとも大切にする基調は「自由」です。

「自由」を束縛する時点で、それは純粋な叡智ではなく、エゴの混入を示すからです。スピリチュアルな道のリスクは「自由」を奪われることだとよく理解した上で、自分を常に中心に保ちながら、しっくりくる言葉や情報を求めて、学び続けてみてください。

その虹の端には、必ず「金の壺」が埋まっているはずです。

それではまた。

よかったらシェアください
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次