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虹のすべり台

Rainbow Valley

前口上

 これは六歳の女の子「トモちゃん」が本当に話してくれたお話です。まるで、どこかに忘れた大切な宝物が、ある日突然出てきたみたいに、トモちゃんはこの話をしてくれたのです。それはトモちゃんや、トモちゃんの姉妹や、それ以外の子どもたちがどうやってここにきて、どうやって一緒に暮らすことになったのか、そのことをしらせてくれます。
 もちろんこれはお話です。お話というのは、皆さんは知らないかも知れませんが、おもしろくするためにうまい具合にホラ話がまぶしてあるものです。ホラというのは、「面白くて楽しくて迷惑をかけない嘘」のことです。
 トモちゃんのお父さんである私は、この話を聞いたあとで、ぜひ物語にして欲しいとお願いされてしまいました。でも、そのためにはまず、トモちゃんに喜んでもらえるような面白い話にしなくてはなりません。
 聞いた話をそのまま書いても、喜んでくれるはずはありませんよね。だって、お話の筋をみんな知っているわけですから。ですから、私はトモちゃんに喜んでもらうために、おもしろいホラ話にしてしまいました。
 もちろん、トモちゃんが最初にしてくれた、お話の大事なところはそのままちゃんとはいっていますから、どうぞご心配なく。
 この物語を読んで、自分がどこから、どんなふうにやってきて、どうしていまここにいて、なんで一緒に同じ家で暮らしているのかがよくわかって、家族や兄弟が仲良く楽しくて幸せな人生を歩いてもらえれば最高です。

 それでは、はじまりはじまり~。
 

1 出発

 トモちゃんはいよいよ宇宙幼稚園を卒園して、地球という星の、日本という国に住んでいるお母さんのところに向って、虹のすべり台を下りていこうとしていました。
 トモちゃんの持っている未来ノートには、これからどんな赤ちゃんになって、どんな子供になって、どんな大人になって、そしてどんなおばあさんになるかが書いてありました。お母さんやお父さんのことも、お兄ちゃんや妹のことも、そこには書いてありました。
「トモちゃん、これから君はサヤカさんというお母さんのところにいくんだね」と宇宙幼稚園の園長先生が言いました。園長先生は太陽のようにキラキラと輝いていました。
「はい、そうです」とトモちゃんは答えました。
「それからミキオさんというお父さんがいるね」
「はい」
「お兄ちゃんはミツルくんだね。さっき滑っていったばかりだけど」
「はいそうです」
「忘れ物はないかい? 未来ノートは持った?」
「はい、ちゃんと持ってます」
「ちょっと見せてごらん」
「はい、どうぞ」トモちゃんは未来ノートを広げて園長先生に渡しました。
 園長先生はしばらくそのノートを読んでいました。
「ほお、おもしろいことがいきなりおこるね」
「そうでしょう?」トモちゃんはにこにこしました。
「じゃ、用意はいいね。きっと素敵な旅になるよ」
「ありがとうございます。じゃ、行ってきまーす」
 トモちゃんは、虹のすべり台のはしっこに座り、ぽんと勢いをつけて身体を押し出すと、キラキラ輝く七色の虹を滑り降りていきました。 
 トモちゃんは、赤になったり青になったり黄色になったりしながら、虹のすべり台を勢いよく下りていきます。ぐんぐんスピードが乗っていきます。すると、それに合わせるように、身体もどんどん小さくなっていきます。トモちゃんは、勢いよく駆け降りていく中で目をつぶったまま眠ってしまいました。

 ところが、不思議なことが起りました。
 突然すべり台の一部分が、すぽっと消えてしまったのです。まるで、そこに空気のポケットが開いたみたいに、虹の一部分がかけてしまったのです。
 トモちゃんは気付かないうちに、そのポケットに吸い込まれて、すべり台の行き先とは違うところに落ちていってしまいました。

2 消えた赤ちゃん

 サヤカさんは家の近くの産婦人科の病院に出かけました。今日は二回目の検診です。赤ちゃんの様子を見るために、お医者さんに見てもらうのです。
「それじゃ、行ってくるね」とサヤカさんは言いました。
 二才のミツルくんもいっしょです。
「気をつけていっておいで」とミキオさんは言いました。
「うん」サヤカさんは少し不安そうです。
「どうしたんだい?」
「実はね、なんだか最近変なの」
「なにが?」
「最初の検診で赤ちゃんがいるってわかったでしょう? それから一ヶ月なのに、なんだか本当に今もいるのかわからないの。つわりも前ほどひどくないし」
「ひどくないなら、楽でいいじゃない。大丈夫だよ。よく見てもらっておいで」
「うん」サヤカさんはうなずきました。

 サヤカさんはミツルくんをベビーカーに乗せて歩いて病院に行きました。桜の花が終わって、綺麗な小さい青葉が咲き出していました。
「きれいだねー」とサヤカさんが言いました。
「キレイキレイ」とミツルくんも言いました。
 サヤカさんはため息をつきました。
「もうちょっとミツルくんが大きかったら、楽なんだけどねー。こんなに早く二人目ができるなんて思わなかったもんなあ。弱ったなあ」とサヤカさんは言いました。

 病院で診察が始まりました。サヤカさんの名前が呼ばれました。
 診察室に入ると、妊婦さんが乗せられる診察台があります。両足を置くところがあります。待っていると医者がやってきます。内診を受けて、続いて超音波でおなかの中の様子を見ていきます。
「あれっ、おかしいな」若いお医者さんが首をかしげました。
「おかしい?」サヤカさんが訊ねました。
「あなた、最近出血とかなかった?」と医者が聞きました。
「いいえ。とくに」
「おかしいな。お腹の中に、赤ちゃんがいないんですよ」
「ええっ!!」
「普通、流産してもすぐにお腹の外に出るわけじゃないんだけど、なにも感じなかった?」
「そういえば、なんか静かだなーとは思ってましたけど…」
「胎盤はあるんだよね。なのに胎児がすっぽり消えてしまってる。絶対出血あったはずだよ。前回ちゃんと妊娠は確認しているんだし」
「そんなこと言われても…。ほんとに何もなかったんです」
「だって見てみなさい。何も映ってないですよ。ほら」
 ほんとうにモニターには何も映っていませんでした。
 
 赤ちゃんが消えてしまったのです。
 

3 最初の友達

 トモちゃんが目を覚ますと、そこは雲の上でした。
 大きなお日さまが空を覆うように輝いていました。
「おひさま、おひさま。私はもう産まれたの? でもなんかへんよ」とトモちゃんはお日さまに訊ねました。
「やあ、トモちゃん。目を覚ましたのかい? そこは雲の上だよ。虹のすべり台が途中で消えて、そこに落ちてしまったのさ」とお日さまは答えてくれました。その声は園長先生の声でした。
「あらまあ、そうなの」
「でも、それは君が未来ノートに書いたことだよ」
「そうなのね」とトモちゃんは言いました。「私、未来ノートに何を書いたのか、すっかり忘れてしまったわ」
「そりゃそうだよ」とお日さまは笑いました。「虹のすべり台をすべって、七色の光に包まれると、未来ノートにかいたことをみんな忘れてしまうのさ」
「でも、まだしゃべれるわ」とトモちゃんは言いました。「赤ちゃんはしゃべれないはずだもの」
「君はまだ、赤ちゃんの体の中に入っていないからね」
「なるほど! まとめるとこういうことね」とトモちゃんは得意そうに言いました。「私は未来ノートに書いたことは忘れちゃった。でも言葉はまだ話せる。虹のすべり台から落ちて、お母さんのお腹にまだついていない。でも、雲の上に落ちてツイてた」
「上出来上出来」とお日さまは笑いました。

 ふと、トモちゃんが遠くを見ると、何かがやって来るようでした。

 白い大きな獣です。それは馬でした。馬が雲の上を走ってくるのです。
 トモちゃんの前に、白い馬が止まりました。
「わあ、キレイな馬ねえ」とトモちゃんは言いました。
「あら、まあ!」と白い馬はすっとんきょうな声を出しました。「あなたトモちゃんでしょ? どうしてこんなところにいるの?」
「私ね、どうも虹のすべり台からここに落っこっちゃったみたいなの」
「それはたいへん!」と白い馬は言いました。
「私、お母さんのお腹の中に行きたいんだけど。どうしたらいいのかなあ」
「もう一度、宇宙幼稚園に戻ってやり直すのよ。ここにいては、危ないわ!」
「どうやって戻ればいいの?」
 白馬は黙ってしまいました。戻り方を知らないのです。
「そうねえ」とトモちゃんは考えました。「じゃ、お馬さん。私をお母さんのところまで連れていってよ」
「それも私にはできないわ」と白馬は言いました。「でも、その方法を知っている人のところまで連れていってあげることはできるかもしれない」
「もちろん、それでいいわ」とトモちゃんは答えました。「じゃあ、行きましょう」

4 宇宙のお産

 サヤカさんは、しくしく泣きながら家に帰ると、ミキオさんに今日、医者に言われたことを話しました。
「赤ちゃんがいなくなった?」ミキオさんはびっくりして言いました。
 サヤカさんは目を真っ赤にしてうなずきました。
「私が悪いの。こんなにはやく赤ちゃんができちゃって、どうしようって思ってたから、きっと嫌になってどこかへ行っちゃったのよ」
「ちょっと待って」とミキオさんは頭を掻きながら言いました。「そんなふうに自分を責めるのはやめて、もう少し冷静に考えてみようよ。それは、流産したってことなの?」
「それがわからないのよ。出血もなかったし」
「じゃ、お腹の中にまだいるってこと?」
「でも、今日超音波で見たけど、お腹の中にはいないの」
「そんなことって、おかしくない?」
「そうよ。でも、本当にそうだったのよ」
「じゃ、最初からいなかったんじゃないの? 想像妊娠とかさ」
「そんなはずないわ」とサヤカさんは首を振りました。「想像妊娠って、なかなか子供が出来なくって、欲しい欲しいと思っている人が、実際にはお腹にいないのに、妊娠したみたいになることでしょう? 私はそうじゃないもの」
「ああ、そうかあ」
「前回見たときはちゃんと超音波に映っていたわ。心臓も動いていたもの」
 そう言いながらサヤカさんは二枚の写真を並べました。
 一枚は前に撮ったもの、もう一枚は今度撮ったものです。
「ほらね。これが赤ちゃん。でもこっちにはないでしょう?」
「うーん。小さすぎてよくわかんない」
「それに、胎盤はちゃんとあるっていうのよ」
「でも赤ちゃんがいないの?」
「そう」
「あのさあ、はっきり言っていいかな?」
「なに?」
「お医者さんを変えよう」とミキオさんは言いました。「実はさ、この本をお母さんに勧められて読んでみたんだよ」
 そういってミキオさんがカバンから出してきたのは、稲倉という人が書いた『宇宙のお産』という本でした。
「この先生なら、きっと君の力になってくれると思うんだ」
「本当?」サヤカさんは本を手に取ってぱらぱらと読んでみました。
「だって、赤ちゃんが消えちゃったんだよ」とミキオさんは言いました。「宇宙のお産がわかる人じゃなきゃ、手に負えないよ」
 ミツルくんはすやすやと眠りながら、楽しい夢を見ていました。

 こうして、二人は近いから便利という理由で選んだお医者さんではなく、自分たちにお産のこと、赤ちゃんのことを、ちゃんと教えてくれるところに行くことにしました。
 

5 ライオンとチーター

「おい君たち、待ちなさい」
 トモちゃんが白馬の背中に乗ったとたん、低い声が後ろから聞こえました。
 振り返ると、大きな金色のライオンがいました。まるで太陽みたいにきらきらと輝いています。
「あら、ライオン先生!」と白馬は言いました。
「やあ」とライオン先生はたてがみの中でにっこり笑いました。
「どうしてここに?」と白馬が訊きました。
「白馬のユキさん。君は自分の足で突っ走れば、ここから逃げられると思っているね」とライオン先生は言いました。
「だめなんですか?」と白馬のユキは言いました。
「このあと、とても足の速い追っ手がやってくる。君だけでは逃げ切れないだろう」
「まさか、流れ星チーター?」
「ああ、もう嗅ぎつけたようだ」
「流れ星チーターって?」とトモちゃんは訊きました。
「あなたみたいに、迷子になった子供をさらって、月の世界につれて行く獣のこと」と白馬のユキは答えました。
「それはたいへん!」とトモちゃんは言いました。「月の世界ってルシファーがいるところじゃない」
「さすがトモちゃん、よく知ってるね」とライオン先生は言いました。「一度月の世界につれて行かれたら、戻ってくるのに千年かかってしまうんだよ」
「じゃ、先に連れて行きますね」と白馬のユキは言って、すごい速さで駆け出しました。
「きゃう」トモちゃんは変な叫び声を挙げながら、ユキの首にしがみつきました。
「振り返らないようにね」とライオン先生は言いました。白馬のユキが駆けていくと、同時に雲の反対側に五つの流れ星がこちらに向ってくるのが見えました。
「五匹も相手にしなくてはいかんのか。ちとしんどいな」とライオン先生は流れ星をにらみつけて言いました。すると、たてがみが五つの棒のようにぐんぐんと伸びていきました。
 やがて、五つの流れ星のようなチーターたちが、野球のボールのように猛スピードで飛んできました。ライオン先生は、五つのたてがみでできた棒を、バットのように振り回して、カキーン、カキーンと四回打ち返しました。四匹のチーターは頭をバットでひっぱたかれて空中高くくるくると舞い上がり、地面にスタッと着地しました。
「一匹逃したか!」とライオン先生は舌打ちをしました。
 一匹だけ、空振りをしてしまったために、ライオン先生の脇をすり抜けて、白馬のユキを追いかけていってしまいました。
「よくも邪魔したな」
「頭なぐったな」
「いってえなあ」
「鼻血でたぞ」
 チーターたちは怒って、ライオン先生に飛びかかりました。
 ライオン先生は、走る速さではチーターにかないませんが、闘いとなれば話は別です。チーターは四匹がかりでライオンに挑みましたが、たてがみが千本の腕となって闘うライオンにかなうはずもありませんでした。四匹とも首を刎ねられて、星くずになって消えてしまいました。

 しかし、一匹だけライオン先生をすり抜けたチーターは、白馬のユキにもうすぐ追いつこうとしていました。

6 新しい場所

 ミキオさんの運転するステップワゴンに乗って、サヤカさんは新しい産院に向いました。
 高速道路に乗って走っている間、ミツルくんはチャイルドシートですやすやと眠っていました。
 一時間ほど走ったところでインターチェンジをおり、しばらく町の中を走っていくと、やがて路地の奥深くに神社のような木立を見つけました。木々に包まれるように、家が建っていました。普通の家ですが、玄関先に小さく「稲倉助産院」と看板に書かれていました。
「ここみたいだ」とミキオさんは駐車場に車を停めました。
 若葉が太陽の光を透かして、鮮やかな黄緑色に輝いていました。
 ちょうど玄関から、妊婦さんが二人、笑いながら外に出て来ました。見るからに親しそうな友達といった感じでした。
 サヤカさんはミキオさんの後ろから、ミツルくんを抱いて通り過ぎようとしました。
「あら、新しい方じゃない?」と髪の長い優しい雰囲気の妊婦さんが声をかけました。お腹はまだそれほど大きくありません。
「こちらは初めて?」ともう一人の髪の短い活発そうな雰囲気の妊婦さんが訊ねました。だいぶお腹が大きいようでした。
「あ、は、はい」とサヤカさんは慌てて答えました。
「あら、可愛い坊やね」と髪の長い妊婦さんが言って、ミツルくんの頭をなでました。
「本で見て、今日初めて来たんです」とミキオさんが言いました。「素敵なところですね」
「中身はもっと素敵ですよ」と髪の短い妊婦さんは笑いました。
「一日楽しんでいってね」と髪の長い妊婦さんも笑いました。
 まるで前からの友達のように二人は親しげに手を振って、帰っていきました。
 サヤカさんは不思議そうに二人を見送りました。
 玄関から中に入ると、普通の家と同じように、小さな土間と、靴箱がありました。
 上がると、板敷きの廊下があり、受付がありました。
 受付には誰もいませんが、「ここに名前を書いてください」と書かれた紙がノートの上に置かれていました。サヤカさんは自分の名前を書き、保険証を箱に入れました。
 受付の脇には待合があり、そこで二人の妊婦さんが順番を待っていました。
 やはり、同じように和やかにおしゃべりしています。
 ちょうど、そのときに診療室の扉が開きました。
 中から、すらっとした女の人が出て来ました。髪を後ろで綺麗に巻き上げ、麻のざっくりとした服を着ています。まるで異国の先生のように見えました。
「こんにちは。初めての方ですね?」と先生は訊きました。
「は、はい」とサヤカさんは緊張して言いました。
「よくいらっしゃいましたね。しばらくこちらでゆっくりしていてください」
 サヤカさんが待っている間も、妊婦さんはとても明るく、楽しそうにお話をしていました。
 順番が回ってきて、サヤカさんとミキオさん、ミツル君は診療室の中に入りました。
 

7 脱出

 白馬のユキは全速力で逃げます。
「わー、すごい勢いでおいついてきたよぉ」トモちゃんがは後ろを振り返りながらにこにこ笑って言いました。「わくわくするねえ!」
「楽しんでないで、しっかりつかまっててよ!」白馬のユキも全速力でかけているのですが、流れ星チーターは光のようにぐんぐん追いついてきました。
「まてー!!」と流れ星チーターの声が聞こえた瞬間、ユキは突然、猛烈な急ブレーキをかけました。
 ききききーっ!!
「うきゃ!」とトモちゃんはまたへんてこな叫び声をあげて、ユキの首にしがみつきました。顔が半分くらいユキの背中にめり込みました。
 ユキは横にスライドして止まると、勢いをつけて飛んできた流れ星チーターは急に止まることができずに、通りすぎてしまいました。
 すぐに旋回して、こちらに向き直ろうとしています。しかし、スピードが速すぎるので、急に曲がれません。その隙に、ユキは流れ星チーターが一番曲がりにくい方向に向って駆け出しました。
「ねえねえユキちゃん、そっちは道じゃないよ」とトモちゃんは言いました。
「知ってるわよ。いいから黙ってて」と白馬のユキは言いました。「このまま道を走っていたら、どの道つかまっちゃうわ!」
「おおー、この道どの道」とトモちゃんはくだらない冗談を言いました。
 白馬のユキは、雲の道から外れて、雲の急な土手を駆け降りていきます。
 流れ星チーターは旋回しながら速度を落としたので、もう急ブレーキでやり過ごすことはできないでしょう。ユキを追いつめるようにゆっくりと追ってきます。
 しかし、ユキは構わないで土手を駆け下っていきます。ときどき雲が段差になっているので、そこはジャンプしてやり過ごします。ジャンプするたびに、ジャンプの幅が広がっていきます。
「ユキちゃん、その先って、雲が切れてると思うんだけどなあ」トモちゃんはのんびりと言いました。
 まさにその通り!
 ユキは全力でジャンプをしました。
 雲が切れて、美しい青い海がきらきらと光っているのが見えました。
「あ、地球の青だあ。きれー」とトモちゃんは言いました。
 白馬のユキは前脚を必死に伸ばして、雲の対岸に飛び移ろうとしました。
 しかし、雲のすき間はあまりに広くて、ユキの前脚は雲に届きませんでした。
「トモちゃん! 私にしっかりつかまってて!!」ユキは叫びました。
「つかまってるよー」とトモちゃんはあいかわらずのんびりといいました。
 白馬のユキは空中でバランスを崩し、雲のすき間から下へと落ちていってしまいました。

 しばらくの間、獲物に逃げられた流れ星チーターは、舌打ちをしながら雲のすき間の上をぐるぐると回っていました。
 

8 稲倉先生

「こんにちは、助産士の稲倉です。どうぞよろしく」稲倉先生はにっこり微笑みました。目がとても大きくて綺麗な女の人です。
「よろしくおねがいします」とサヤカさんとミキオさんは挨拶をしました。
 ミツル君はミキオさんの膝の上に抱っこしてもらって、上機嫌です。
「お電話でちょっと聞いたお話では、ちょっとよくわからなかったのですが?」
「はい、その…。じつは」と2人は今までのいきさつを話しました。
「赤ちゃんが、消えたんですか。ふうむ」と稲倉先生は首をひねりました。「とにかく検査をしてみましょう」
 稲倉先生は、超音波での検査と内診をしました。しばらくノートに書き込んでいましたが、やがて二人に向き直りました。
「だいたいわかりました」と稲倉先生は言いました。
「え、わかった?」と二人はびっくりして言いました。「赤ちゃんが消えた理由がですか?」
「いいえ」と稲倉先生は微笑みました。「消えてはいませんよ。消えてもいないし、流産もしていない。もちろん死産でもない」
「でも、超音波にも映っていなかったんですよ」
「今でも映ってはいませんね。だから医学的には、もし妊娠が正しかったなら、急にいなくなったとしたら、もともと妊娠していなかったか、流産して知らない間に出てしまったか、どちらかってことになりますね」
「はい。そう言われました」
「でも、宇宙的にはそれ以外にも理由があるんです」
「宇宙的?」
「サヤカさん。ちょっと辛いかもしれませんが、一つ質問をしますね」
「は、はい」
「赤ちゃんが急にいなくなって、どんな気持ちがしましたか?」
「え? えっと…。その…」サヤカさんはしばらく言いにくそうに口ごもっていましたが、稲倉先生に促されるようにぽつりとつぶやきました。「私が悪いんです」
 稲倉先生はやさしい目でサヤカさんの目を見守っていました。
 サヤカさんの目から、ぽろぽろと涙が落ちました。
「私、赤ちゃんに消えて欲しかったんです」
 ミキオさんは、思わずため息をつきました。
「ミツル君を産んでから、なんだか苦しいことがいっぱいになっちゃったんです。それからおっぱいとか子育て一つ一つがすごくたいへんで、わからないことばっかりで、でもあまりお父さんやお母さんに迷惑かけたくなかったし、主人も精いっぱいやってくれてるのがわかるので今まで言えなかったんだけど、もう赤ちゃんは一人でたくさんって思ってたんです。それなのに、こんなに早く次の赤ちゃんが出来ちゃって。ああ、嫌だ。またこれを繰り返すのかって。赤ちゃんなんか出来なかったらいいのに。消えちゃえばいいのに。ずっとそう思ってました。そうしたら本当に赤ちゃんが消えちゃったの」
 それからしばらく、サヤカさんは話もできないくらい涙をぼろぼろ流していました。ミキオさんはサヤカさんの背中をさすっていましたが、同じように苦しそうな顔をしていました。
 稲倉先生は、二人のそんな様子を穏やかな目で静かに見つめていました。

9 アオザメの贈物

 白馬のユキとトモちゃんは、雲のすき間から海に落ちていきます。
「うわー、おもしろおーい」とトモちゃんはユキの首にしがみついて、足をぷかぷか浮かせながら言いました。ものすごい風が下から上と通り過ぎていきます。まるで自分の身体が空気になったみたいに浮いているような気分がします。
「泳いでるみたいだねー」とトモちゃんは笑いました。
 白馬のユキは、恐ろしさに耐えるように目をぎゅっとつぶり、トモちゃんを抱くように身体を入れ替えました。
 遠かった海のきらきらが、ぐんぐん近づいてきます。
「きゃー! おちるーぅ!!」とトモちゃんはノリノリで叫びました。

 どっしゃーーーーーーーーーーーーん!!!!!!!
 
 海にいん石でも落ちたような、巨大な水煙が立ち上りました。

 白馬のユキとトモちゃんは、海の中にぶくぶくと沈みかけましたが、ユキは残る力を振り絞って腕や足を動かして、なんとか海の上に顔を出しました。
「ぶはあっ! うわー気持ちいいねえ! 海水浴だあ」とトモちゃんは言いましたが、ユキはそのまま気を失ってしまいました。
「ユキちゃん! だいじょうぶ? お腹すいたの?」トモちゃんはユキのたてがみをひっぱりましたが、目をつぶったまま波に揺られています。
「あらら、寝ちゃった」トモちゃんが白馬のユキの頭をなでてやりました。「あれ? なんだろう」
 トモちゃんは、波と波の間に三角形のへんてこなものが動いているのを見つけました。
 それはぐるぐる周りを取り囲むように廻っています。
 その三角はなんと、サメでした。サメの背びれだったのです。真ん丸い目がギロリと睨んでいて、怖い歯がたくさん並んでいます。でも、トモちゃんはそれがサメとは知りませんでした。
「わー、なんだろ。ぐるぐる目が回るよー」とトモちゃんが言うと、そのへんてこな三角が海の中に消えてしまいました。
「あれ、いなくなっちゃった」
 ところがごぼごぼごぼっと音がしたかと思うと、海が山のように盛り上がって、その一番とがった先からサメが飛び上がったのです。そして、その恐ろしいノコギリのような歯が並んでいる口を空中に向けてがばっと開けました。
「うっきゃー! カッコいい!!」とトモちゃんは叫びました。
 ところが、サメが噛みついたのは、トモちゃんではなく、白馬のユキでもなく、上から光りの矢のようにまっすぐ落ちてきた、流れ星チーターでした。
 なんと、流れ星チーターは雲の下まで追いかけてきたのでした。が、サメに一撃で首を食いちぎられてしまい、流れ星ごと弾け飛んで、消えてしまいました。
 
「ありがとう! 君、名前なんて言うの?」トモちゃんはうれしそうに言いました。
「お、おれ。怖くないの?」とサメはトモちゃんの周りをくるくる泳ぎながら、恐る恐る聞きました。
「なんで? 怖くないよ。っていうか、怖いってなに?」とトモちゃんはききました。
「お、おれ。アオザメだよ。で、でも悪いことしないよ。怖くないのかい?」
「怖くないよお。かっこよかったよお。すっごいジャンプできるんだねえ」
「そうかい。こんな顔してるのに、怖がらない。うれしいな」とアオザメは言いました。喜んでいるのかもしれませんが、なんせ目は真ん丸で動きませんし、口は尖った歯がうじゃうじゃですから、とても喜んでいるようには見えません。でも、トモちゃんは全然そんなことは気にならないみたいでした。
「ねえねえアオザメ君。あのさあ。このユキちゃんがさあ、寝ちゃったのよ」
「ああ、そうだねえ。怪我もしてるし、だいぶ弱ってるねえ。でも、食べないよ」
「どこか、ゆっくり眠らせてあげたいなあ。いっぱい走ってくれたんだもん」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待ってな。おれがいると、みんな怖がってこないからさ。おれがいなくなれば、きっとイルカたちが来るよ。あいつらが連れていってくれる」
「ええー、イルカちゃんより君がいいなあ」とトモちゃんは残念そうに言いました。
「ええっ。イルカよりおれのほうがいいの?」アオザメはしばらく黙ってしまいました。顔が全然変らないので分かりにくいのですが、どうやらものすごく感激しているようでした。「ありがと。お、おれ、そんなこといわれたの、はじめてだ。うれしいから、君にこれをあげる」
 そう言ってアオザメは、胸びれをちぎってくれました。
「これなあに?」とトモちゃんは訊きました。
「スープにして食べさせてあげな。きっと元気になるよお」とアオザメは言いました。「じゃ、特別にサメの長老様に、君たちを運んでくれるようにお願いするよ。長老様なら、きっと助けてくれるはずだよ。必ずお母さんのところにたどり着けるからね。グッドラックだよお」
「ありがとー! 君のこと忘れないよお」
 アオザメは背びれを嬉しそうに振って、もぐっていきました。

10 四次元ポケット

 
 診療室の中は、壁や軒のすべてが綺麗なひのきで作られていました。ところどころに小さな鉢植えがおかれていました。「こだからそう」と書いてありました。
 サヤカさんは泣き続けていました。ミキオさんはサヤカさんの背中をなでながら、辛そうな顔をしていました。
 ミツル君は、お父さんの膝の上から下りて、稲倉先生のそばにやってきました。
 ミツル君は、先生をじっと見つめました。
 先生は、にっこりとミツル君に微笑みかけました。
 ミツル君は大きな大きな黒目を見開いて、稲倉先生の澄んだ瞳の奥の奥のほうまでのぞき込みましたが、先生はそれを隠そうともしませんでした。
 ミツル君はにっこり笑いました。
 先生はミツル君の頭をやさしくなでました。
「あちょんでてもいい?」とミツル君は可愛い声で聞きました。
「ええ、いいわよ」と先生は言いました。
 ミツル君は、一人ですたすたと歩いてドアのそばに行きました。
 先生がドアを開けてあげると、ミツル君はすたすたとおもちゃのある待合に行ってしまいました。
 先生はドアを閉めて、元のイスに腰かけました。
 ようやく、サヤカさんは泣き声が落ち着いてきたようでした。
「私の先生が教えてくれたことなんですが」と稲倉先生は言いました。
 二人は、はっと顔を上げました。
「赤ちゃんは宇宙が産むんだそうです。お母さんは宇宙のかわりに、赤ちゃんを授かり、お産をするんだって。神様の代わりに赤ちゃんを産むんだって、そう言われていました」
「ごめんなさい」
「すみません」二人が頭を下げて謝りました。
「謝ることはありません」稲倉先生は首を振りました。「サヤカさんが辛かったのは、当然のことなんです。いまのお産の考え方や、信じられていることのほとんどが、不自然なことなんです。その不自然な考え方にしたがって、お産をしたり、子育てをしたら、どんどん苦しくなりますよ。私も、先生に教えていただくまでは、同じようにお産のこと、子育てのことでとても悩んでいたんです。それは私が悪いからだって、思っていたんですね。でもそうじゃないんです。世の中が間違っているんですよ。もしあなたが本当のお産、自然なお産をしたいと思うのでしたら、私も全力で私が先生から教えていただき、そうだなって思ったことをお伝えします。そして、あなたにもお産がこんなに楽しくて、うれしくて、喜びなんだってことを知って欲しいですね。身体、自然、宇宙に沿ったお産をしたら、それは産みの苦しみじゃないんです。産みの喜びになるんです。そのかわり、私は何も保証はしません。やるかやらないかは、あなた達お二人次第です」
「あの、一つお伺いしてもいいでしょうか」
「はい。いいですよ。何でも聞いてくださいね」
「どうして、こちらの妊婦さんは皆さん明るいんですか? そういう人ばかり来るんでしょうか?」
「いいえ、最初はみんなあなたと同じように、不安や怖れでいっぱいの顔でお見えになります」
「そうなんですか? でもさっきお会いした方々は、みんなとても明るくて楽しそうで、なんか私みたいなのが、できるのかなって…」
「お話をいくらしてもたぶんわからないと思うんですよ」と稲倉先生は言いました。「それより身体で実感なさったほうがいいでしょう。ちょうど今、クラシックワークやってるんで、よかったら参加なさいませんか?」
「クラシックワーク?」
「それ、本で読みました」とミキオさんが言いました。「写真を見ていたら、懐かしいような、楽しいような、やってみたいなって思ったんですよ」
「じゃ、ご主人も一緒にどうぞ。お二人でいろいろ体験してみてください」
「あの、消えた赤ちゃんは結局どうなんでしょうか?」サヤカさんは訊ねました。
 稲倉先生はくすっと笑いました。
「たとえ話をしましょう。いま、あなた方お二人の息子さん、ミツル君だったかな」
「あれっ!」とミキオさんがびっくりして言いました。「ミツル、どこいったんだ?」
「だって、あなたの膝の上にいたじゃない!」サヤカさんはあきれて言いました。
 稲倉先生は笑いました。
「さっき一人で遊びに行きましたよ。あなたがた二人は、こういうとき、ミツル君が消えたって言いますか?」
 二人はぽかんとした顔をしていました。 
「お母さん。あなたの子宮は四次元ポケットなんです。ドラえもんみたいにね。それは宇宙に繋がっているんです。一時的にあなたと赤ちゃんの波長が合わなくなって、消えてしまっただけです。身体はお産の状態のままなんだから、そういうことです。だから大丈夫。あなたがお産を楽しめるようになれば、ちゃんと戻ってきてくれます。自分を責めたり、苦しめたりしないで、心はゆったりと、体は鍛えて、心地よい生活を心がけてくださいね」
 どんどん、とドアを叩く音がしました。
 ミキオさんがドアを開くと、ミツル君がおもちゃを山のように持ってにっと笑っていました。
 三人は、思わず声を上げて笑いました。

11 サメの長老

 サメの長老は、大きなジンベイザメでした。斑点のある大きな背中に、気を失った白馬のユキと、トモちゃんは乗せてもらいました。
 サメの長老はときどき、あくびをするみたいに大きな口を開けました。そういうときは餌のプランクトンがいっぱいあるのです。だから、その餌をねらって、小さな魚たちがあとにいっぱいついて来ています。さらにその小さな魚たちを狙って、中くらいの魚が続きます。そしてその中くらいの魚たちを狙って、大きな魚たちもついて来ます。おかげで、サメの長老自体が魚の町のようでした。
 トモちゃんは、そこでたくさんの魚たちと友達になりました。
 トモちゃんは、どんな魚も大好きでしたし、怖がることを知りません。だから、あっというまに、みんなと打ち解けてしまうのでした。
 白馬のユキは気を失ったままでした。ジンベイザメの背中の上に横になっていました。
 やがて長い移動が終わりました。
「ここらじゃな」とサメの長老は言いました。
「なにがあるの?」とトモちゃんは訊ねました。
「お山じゃ」
「山? ここは海だよ」
「海の中に大きなお山があるのじゃ」とサメの長老は言いました。「その山のふもとに社がある。そこにおぬしらと同じ役割を持った子供と獣が集まっておる。頼めば誰かが治してくれるじゃろう」
「へえ、仲間がいるんだあ。でもその役割ってなんなの?」
「知るかいな。おぬしのほうがわかっとるはずじゃがの」
「知らないよぅ」
「未来ノートを書いとるじゃろが」
「書いたけど忘れたもん」
「ポケットに手をつっこんでみよ」
 トモちゃんはポケットに手をつっこみました。さっきアオザメにもらった胸びれと、もうひとつくしゃくしゃのものが出て来ました。
「なにこれ? 葉っぱじゃん」トモちゃんはくしゃくしゃを開いて言いました。
「それじゃがな。だいじにしとくんじゃぞ」
「これ、未来ノートなの?」
「未来ノートの写しの一枚じゃ。それが鍵になっとる」
「ほーい」
 長老のそばに、イカが二杯ぽかりぷかりと頭を出しました。青い星のような光が、イカのあちこちでチカチカ光っています。
「このイカジェットが、君らを連れていってくれるじゃろ。気いつけてな」
「ありがと! じゃ行ってくるね!」
 白馬のユキをイカジェットに移し、トモちゃんはもう一つのイカジェットに乗り込みました。
 イカは海水をきゅいいいいんと吸い込み、玉のようになると、それを一気に吹き出しました。
「きゃう!」トモちゃんは変な叫び声をあげました。
 イカジェット二杯は青い光を筋のように引きながら、ものすごいスピードで潜っていきました。

12 クラシックワーク

 産院の裏手には、きれいな畑がありました。
 不思議なことに、畑は茶色ではなく緑色なのです。それは草でした。美しく刈り取った草が幾重にも重なって、畑になっているのです。
 その草の床に植えられた野菜は、いきいきと瑞々しい緑色をしていました。

 畑のそばには農家の小屋のような建物があり、そこに何人かの妊婦さんがいました。
 みんな、農家の女の人のように、てぬぐいを頭に巻いたり、エプロンを着けているのですが、それぞれパッチワークのように色とりどりにできているので、それを着ている妊婦さんたちもまた色とりどりに見えました。
 サヤカさんとミキオさんはその輪の中に混ぜてもらいながら、畑の草刈りをしたり、小屋のぞうきんがけをしたりしました。ところが、少しだけやり方が違うのです。
「ここの仕事はね、みんな意味があるの」サヤカさんが最初に友達になったハヅキさんが、いろんなことを教えてくれました。「足腰をこういうふうに仕事で使ってあげると、自然に強くなるんですって」
「器具を使ったり、運動って言って退屈なことを繰り返してもだめなんですって」コヨイ
さんは薪を割った後で、汗を拭きながら言いました。「楽しく、うきうきしてやると、どんどん身体が元気になるの。最初はちょっと抵抗あったんだけど、やってみるとなんでか知らないけど、楽しいのね。友達がいるからかな。御飯が美味しいからかな?(笑)」

 サヤカさんは、最初はおっかなびっくりでしたが、教えてもらいながらいろいろやっているうちに、隣の人がいろいろ話しかけてくるものだから、どんどん友達が増えていきました。
 ミキオさんは、最初は薪割りを一生懸命やっていましたが、じきにミツル君と遊んだり、薪に火をつけ、ご飯を炊くのをお手伝いしたりしていました。
「身体だいじょうぶですかー?」と妊婦さんたちがからかうように、ミキオさんに声をかけました。
「いやあ、こんなに身体動かすの久々ですよー」とミキオさんは照れ臭そうに言いました。

 やがて、ご飯が炊き上がり、おみそ汁を作ったり、煮物を作ったり、魚を焼いたりしてお昼ご飯になりました。
 診察が終わった稲倉先生もいっしょにご飯を食べながら話をしていると、いろんな話を聞くことができました。それは知らなかったことばかりでした。
 もちろん、全部をそのまま受け入れることはできませんでした。ただ、一つ一つ話を聞いていて、サヤカさんはいかに今まで「何も知らないことに気付いてなかった」かに気付かされたのでした。
 不安になったり、心配になったりしたのは、自分でわからないことを、どうやって聞いたらいいかがわからないから、心配だったのです。人はいろんなことを言います。本を読んでも、まちまちです。テレビでは心配や不安を増すようなことしかいいません。何を信じていいのやら、どうやって判断したらいいのか、それすらわからずに、選択してお産や子育てをやるのです。医者の言うことに従うしかないのです。
 だからお産が嫌になってしまうのでしょう。本当は子供を産むって、一番すばらしい、お祝い事のはずなのに…。
「よかったらこれをみてください」稲倉先生は、帰り際にサヤカさんにDVDを渡しました。「うちで産んだ人たちのお産のときの表情がいっぱい入っていますから」

 三人で駐車場に戻ったとき、ミツル君は空を見上げて指を差しました。そして「おうまちゃん!」と言いました。
「ああ、あの雲のことかあ」とミキオさんが言いました。
「ほんとだねえ」サヤカさんは雲を見上げて、にっこり笑いました。
「さようならあ。またね!」ハヅキさんとコヨイさんが車の窓から手を振って、帰っていきました。
「どうもありがとう!」サヤカさんも手を振りました。

13 桜ちゃん

 トモちゃんはイカジェットの透明な皮の中から外を眺めていました。
「うわー、キレイなお山!」
 本当に山があるのです。海面がまるで空のように見えます。大きな大きな海の水の中に、すり鉢をひっくりかえしたようなきれいな山が、すっぽりと入っているのでした。
 潜れば潜るほど、光が無くなり、夜のように暗くなっていきます。
 ときどき青いイカジェットと行き違います。やがて、下のほうに青い光が点々と無数に広がっているのが見えてきました。まるでにぎやかな街のようです。
「あれがお社なんだ。キレー」
 イカジェットが速度を落とし、ふわっと海底に着地しました。たくさんのイカたちが、並んで青い光を放っていました。そのまますうっとゆっくり横に動いて、赤い鳥居をくぐりました。社はサンゴと貝殻が集まってできたような、不思議な形をした建物でした。
 その貝殻の横穴に、イカジェットはすぽんすぽんと刺さりました。
 トモちゃんがイカジェットから出ると、思わずびっくりして声を上げました。
「うわあ! きっれえ!」
 社の中は広い広い空間が天井まで広がり、地面はなだらかな上り坂になっています。傾斜一面、美しいピンク色の花を付けた木でいっぱいでした。
 それは桜でした。
 傾斜に蛇のような階段がついていました。その階段を、ゆっくりとおりてくる女性がいました。
 トモちゃんはにこにこして待っていました。
 女の人は一つ一つゆっくりと階段を下り、トモちゃんの前にやってきました。
 薄桃色の着物を着て、髪を高く結っています。全身が、輝く薄桃色のオーラに包み込まれています。
「よくきたわね、トモちゃん。待ってたわ」
「こんにちは! あなたはどなた?」
「私の名前は桜って言うの。桜ちゃんでいいわ」
「じゃあ桜ちゃん。お願いがあるの」トモちゃんはにこにこして言いました。「ユキちゃん、元気にしてあげて。ずっと寝てるのよう」
「お安い御用よ」と桜ちゃんが言うと同時に、桜の花びらが風のように集まり、ベッドになりました。白馬のユキを空中に浮かべ、そのベッドに移しました。
 桜ちゃんは白馬のユキに両手を当てました。そしてあちこちを触ってあげました。
「ああ、いっぱい骨が折れてるね。いままで苦労したんだね。でも、もう大丈夫。ここに来たからには、何も心配しなくていい。何も怖れなくていい。何も苦しまなくていい。あなたのすべてを出し切ることに愛を注ぎなさいね」桜ちゃんがそう言って、ふっと息を吹きかけると、白馬のユキに羽が生えました。
「うわあ! 羽が生えたあ」トモちゃんはびっくりしました。
 白馬のユキが、ペガサスのユキになったのです。
「生えたのではないのよ」と桜ちゃんは言いました。「もともとこの子には羽があったの。今までそのことに気付かないで、自分で隠していただけ。私はただ、元の姿に戻してあげただけよ」
 しかし、まだユキの意識が戻りません。
「愛の印がいるのね」と桜ちゃんが言いました。「トモちゃん、あなた持っていない?」
「愛の印って何?」
「ほら、そのポケットの中に入ってるものよ」
 トモちゃんはポケットの中から、葉っぱと胸びれをとり出しました。
「どっち?」
「こっちよ」
 桜ちゃんはアオザメの胸びれを手に取ると、まるで手品のように空中でスープに変えて、桜の模様の入ったカップに注ぎ込みました。
 そしてそれを口移しで、ペガサスのユキの口に入れてあげました。
「起きた!」トモちゃんが喜びの声を上げました。
 ついに、ユキが目を覚ましたのです。
 

14 浅間神社

 ミキオさんの運転するステップワゴンが高速道路に向って走っていくと、ナビが「ぽーん」と言って、高速道路が事故で渋滞していることを教えてくれました。そのまま乗ったら、家に帰るのがかなり遅くなってしまいそうでした。
「どうしようか」とミキオさん。
「下道でのんびり帰ろう」とサヤカさんは眠そうに言いました。
 ミツル君はチャイルドシートですやすや眠っていました。
「了解」といって、ミキオさんは車を停めて、ナビのルートを新しく設定し直しました。「へー、こんなところに大きな神社があるよ」とミキオさんが地図を見ながら言いました。
「神社?」サヤカさんがナビの画面を見ると、新しく引かれた帰り道沿いに、「浅間神社」と書かれた神社がありました。なぜかそれには桜のマークがついています。
「桜の名所なのかなあ」とミキオさんが言いました。
「ちょっと寄って帰ろうか。なかなかこんなところ通ることもないしね」
 二人とも、なんとなく神様にお参りしたい気分だったのでした。

 稲倉先生に「神様の代わりにお産をするんですよ」と言われた言葉が、ずっと心に残っていました。お昼ご飯のときも、先生のお話しの節々にその言葉が出てきました。
 稲倉先生はお医者さんではありませんが、それに近い仕事をしている人の口から、あたりまえのように自然とか神様とか宇宙とか言う言葉が出てくると、それまでは意識したことや、考えもしなかったようなことを、考えざるを得なくなってしまうのです。
 神社と言えば初詣で、初宮参り、七五三くらいでしたし、お寺にしてもお墓参りしか行ったことがありません。ずっと街で暮らしてきて、宇宙のことなど、考えたこともありませんでした。
 そんな二人にとって、お腹の赤ちゃんが消えたことは、普通の常識では考えられないことでした。でも、それは現実でした。だったら、それを受け入れるしかないのでした。
 しかし、最初は受け入れられませんでした。なにか違いました。だからいろんな本を読んでみました。たまたま稲倉先生の本を読んで、ピンとくるものがありました。そして今日実際に来てみて、やっぱり来て良かったと思いました。
 すべてが「たまたま」でした。でも、それは本当にたまたまだったのでしょうか?
 稲倉先生の考えかたは、お産だけに留まりませんでした。ミキオさんとサヤカさんのこれからの生き方そのものにまで、強く影響してくることでした。それは怖いことでもありましたが、逆にその怖さそのものを消してくれるのではないか、という気もしました。
「私は何も保証はしません」と稲倉先生は言いました。
 二人で選ぶしかありませんでした。結局、何を信じるか、何に賭けるか、でした。
 「たかがお産」と考えていた自分にとって、これほど選択することに重みを感じたことはありませんでした。
 
 サヤカさんは、稲倉先生に渡してもらったDVDをナビに入れ、写真を見ていきました。妊婦さんのお腹の上に乗せられた赤ちゃんの顔は皆穏やかそうでした。お母さんは、涙を流していました。笑っていました。みな、なにかの束縛から解き放たれて、本来のあるがままの姿をそのままさらしていました。
 サヤカさんは、心の底から「うらやましい」と思いました。最初の辛かったお産のことが頭に残っていました。いろんなことがありました。でも、一番思ったのは「こんなものなのか?」ということでした。それが最初のお産の正直な感想だったのです。あまりにあっけなく、あまりにさっぱりと、まるでどこかで買ってきた牛乳みたいに、ミツル君は気付いたら生まれていたのでした。
 そんなことをぐるぐる考えているうちに、サヤカさんは眠ってしまいました。
 
「着いたよ」とミキオさんが言いました。
 鎮守の森が広がっていました。

15 出発

「千年ぶりね」と桜ちゃんは言いました。
 ペガサスのユキはゆっくりと身体を起こし、ベッドから下りました。
 身体を一つ一つ確かめ、羽を動かし、そして桜ちゃんのほうを見ました。
「ありがとう、桜ちゃん。やっとここに来れたのね」
「ユキちゃん、桜ちゃんのこと知ってるの!」とトモちゃんはびっくりしました。
「もちろん、知ってるわ。千年前に、虹のすべり台から落ちて困っていた私を助けてようとしてくれたのは桜ちゃんだもん」
「へええ! ユキちゃんもそうだったんだ」
「うん。でも、結局流れ星チーターに捕まって、月につれて行かれてしまったんだけど」
「それで、馬に変化したまま、ずっとさ迷っていたのね」
「最初は何も思い出せなかったの。でも、だんだん思い出せるようになって、ライオン先生に出会えて、トモちゃんに出会えて、こうしてまた桜ちゃんと出会えたのよね」
「それで私のこと、あんなに必死に守ってくれたのね?」とトモちゃんは言いました。
「だって、トモちゃんまで月につれていかれたくなかったんだもん」とユキちゃんは言いました。「私もお母さんのところに産まれたかったわ。虹のすべり台を楽しみに滑っていったの。でも、途中ですとんと落ちてしまった。赤ちゃんはいらないって、私の体を捨ててしまったのね。だからお母さんのお腹に入ることができなかった。桜ちゃんがなんとか私をもう一度虹のすべり台に行けるように、手を尽くしてくれたけど、結局捕まって月に連れていかれて、私は獣になってしまったの」
「どうしたら、元に戻れるの?」とトモちゃんは訊きました。
「百人の迷子になった可哀想な赤ちゃんを、虹のすべり台に戻してあげることよ」と桜ちゃんは答えました。
「どうやって戻すの?」
「今までそれがわからなくて、困っていたの。そこにトモちゃんが来てくれたの」とペガサスのユキは言いました。
「あ、そっか!」とトモちゃんはひらめきました。「ユキちゃん、羽が戻ったんだ。だったら簡単じゃん。飛んでいけばいいのよ!」
「そうね」と桜ちゃんは言いました。「この社には月の力で獣になった赤ちゃんがたくさんいるの。赤ちゃんを百人助けて、早く自分も人間の赤ちゃんになれるよう、みんな働いているの。あなたはもともとそんなペガサスだったの。羽を取り戻したのなら、もう大丈夫。赤ちゃんを、再びお母さんの元にたどり着けるよう、助けてあげて」
 ユキはうなずきました。「まずはトモちゃん。君をお母さんのところに連れて行くわ」
「行けるの?」とトモちゃんは訊きました。
「行けるわ」と桜ちゃんは言いました。「あなたのお母さんが呼んでいるわ。さあ、もう一度、虹のすべり台を滑ってみましょう。そして今度こそ、お母さんのお腹に完璧な虹をかけてみましょう」
「乗って」とペガサスのユキは言いました。
 トモちゃんはユキの背中にまたがりました。
「ありがとう!」とユキは言いました。
「ありがとう!またね!」とトモちゃんは言いながら、桜ちゃんの手を一瞬握りました。
 ペガサスのユキは羽を広げ、羽ばたきを始めました。トモちゃんはユキの首にしがみつきました。ユキはふわりと空中に浮かんだかと思うと、さらに上へ上へと飛んでいきました。
 トモちゃんは、桜ちゃんにずっと手を振っていました。
 桜ちゃんもずっと二人を見送っていました。
 

16 神殿

 三人が鳥居をくぐると、夕方に近い空はまだ晴れているのに、雨がぽつりぽつりと降り始めました。ミキオさんは、眠くてぐずぐず言っているミツル君を背中におんぶしました。
「あれ、天気雨だねえ」とミキオさんは言いました。
 神社の縁起の書かれた石版がありました。二人は今までそんなものも見たことがなかったので、改めてじっくり読んで見ました。
「これなんて読むのかしらね」とサヤカさんが言いました。「このはなさくやひめ?」
「お姫さまの神社なんだね」とミキオさんは言いました。「このはなって桜のことなんだって。だから桜のマークなのかなあ。あ、これってあさまじんじゃじゃなくて、せんげんじんじゃって読むんだ。へえ、富士山にもあるんだって」
「安産祈願って書いてあるわ。ちょうどよかったね」とサヤカさんは言いました。
 石段を登り、砂利道を歩いていくと、また鳥居があり、そのそばに御手洗がありました。
 木の板にイラスト入りで、水を使う作法が書いてありました。
「えっと、まず左手にかけて…、右手にかけて…、手のひらに水を移して口をゆすいで…、逆さまにしてひしゃくを洗うんだって。全然知らなかったよ」
「あなた前なんか、ぐびぐびお水飲んでたわよ」
「いやー、はっはっは。笑ってごまかそう」
「ぼくもしたいよう」とミツル君が言ったので、おんぶからおろしてあげました。ミツル君はひしゃくでお水をすくってあちこちにぶわっとまきちらしました。そのたびに太陽の光がキラキラ光って、小さな虹があちこちに生まれては消えました。
 ミキオさんとサヤカさんは「こらー!」と叫びました。
 ミキオさんがミツル君をつかまえて、抱っこしようとしましたが、ミツル君は走って逃げ出しました。
「こら! 待ちなさい」ミキオさんが追いかけます。
 ミツル君は、二才の子供とは思えないくらいのスピードで、ちょこまかと走っていってしまいました。
 サヤカさんは、一人で取り残されてしまいました。
 
 何か変でした。お腹や、胸の奥のほうがどきどきしていました。
「なんだろう…?」
 サヤカさんは、ぱらぱらと小雨が降る中を、まるで引き寄せられるように、社に向って歩いていきました。
 ひさしの下に賽銭箱が置かれています。
 そこに立つと、後ろから声が聞こえました。
「あの」と女の人の声がしました。
 サヤカさんが振り返ると、白い着物に赤い袴の巫女さんがいました。
「雨ですから、神殿にお上がりくださいませ」
「あ、いえ。お参りだけですから」
「いいえ。ほら、あちらをご覧なさい」と巫女さんが言いました。
 その指さすほうを見ると、煙った山に虹が架かっているのが見えました。
「あなたは神様に呼ばれてきたのですよ。さあ、どうぞお上がりなさい」
 サヤカさんは、ミキオさんとミツル君が気掛かりでしたが、わざわざ一人になるように仕向けられたような気がして、そのまま一人で神殿に上がっていきました。
 そして、ご神体である鏡の前に正座をしました。

 サヤカさんの身体がどんどん熱くなってきました。

17 虹のすべり台

 ペガサスのユキは社の天井に向けてぐんぐん上昇していきました。
 天井はやがて円になり、筒のようになって、上へ上へと続いていました。
 ユキが羽ばたくと、そのたびにトモちゃんの身体が引っ張られるように、ぐん!と加速しました。なんて力強いんだろう、とトモちゃんは思いました。
 その円形の筒のてっぺんは大きなお山の頂上に繋がっていました。ペガサスのユキは、ぐんぐん速度を上げて、まるで火の玉のように赤く染まりながら、噴火するかのように海の水を押し上げて、大きな水煙とともに空へと飛び出しました。
 そしてさらにぐんぐんと高度をあげ、雲を抜け、さらに雲を抜け、ぐんぐんぐんぐん上がっていきました。
 やがて地球の成層圏を抜け、星があまたに輝く宇宙へと飛び出しました。
 とりわけ太陽が大きく大きく光り輝いていました。
「やあ、帰ってきたね!」と太陽からライオン先生の声が聞こえました。「トモちゃんの落ちた虹のすべり台は、オリオン座の方向にあるよ!」
「ありがとう! ライオン先生」とトモちゃんは言いました。
 ペガサスのユキは光の帯となって、オリオン座の方向に向けて飛んでいきます。
 広々と果てしなく広がる宇宙の中で、トモちゃんのポケットの中にあるくしゃくしゃの未来ノートが強く熱を持ち始めました。
 それはトモちゃんを、もう一度お母さんのお腹へと運んでいこうとしているのでした。
 そしてついに、トモちゃんの虹のすべり台に到着しました。
 ペガサスのユキはふわりと、その横に降り立ちました。
「お別れだね」とトモちゃんはにこにこしながら言いました。「助けてくれて、本当にありがとう」
「トモちゃん。ありがとう」と白いペガサスは言いました。「私、これで初めて一人目の赤ちゃんを助けたことになるの。そして百人の赤ちゃんを助けてあげるの。大好きなお母さんとお父さんのところに行こうとして、途中ですべり台が消えてしまったり、穴が空いたり、壊れてしまったりして、迷子になっちゃった赤ちゃん。それでも、やっぱりあのお母さんが大好きで、お父さんが大好きっていう赤ちゃんをね、助けてあげたいの。願いは必ずかなうと思う。一度や二度失敗したって、虹のすべり台はちゃんと、大好きなお母さんの元に繋がってくれるわ。その赤ちゃんを助けてあげたいの」
 トモちゃんはうなずきました。
「それでね」とユキは言いました。「もし私が百人の赤ちゃんを助けて、人間の赤ちゃんに戻って、お母さんを選ぶならね。トモちゃんのお母さんを選びたいの。トモちゃんと姉妹になりたいの」
「私もだよ、ユキちゃん」とトモちゃんは言いました。「待ってる。ユキちゃんが来るの待ってるよ」
「きっと、また会おうね」とユキは言いました。
「ありがとう」トモちゃんはペガサスの首をぎゅっと抱きしめました。
 そして、にっこり笑うと、虹のすべり台を滑り降りていきました。
 ペガサスはいつまでもトモちゃんを見送っていました。

@@@

 トモちゃんは、
 ぐんぐん速度を上げて
 虹のすべり台を
 滑り降りていきました。

 さらに身体は小さくなり、
 動物になり、
 魚になり、
 やがて、
 ちいさなちいさな
 輝く生命の玉になりました。
 
 未来ノートが
 トモちゃんを
 導いていくのです。

 ついに
 小さな流れ星のように
 真っ赤になって、
 トモちゃんは
 サヤカさんの
 子宮の中に
 落ちました。
 
 どくん、となにかが
 動き始めました。
 

18 再会

 サヤカさんが目を覚ますと、小鳥の声がかすかに聞こえてきました。
 朝の木漏れ日が障子を透かして部屋の中に差し込んできます。
 サヤカさんは布団の中で、少し寝返りを打ちました。
 まだ、昨晩のことが身体に残っていて、自分の身体ではないみたいでした。
 サヤカさんは手を伸ばして、同じ布団に眠っている、小さな小さな赤ちゃんの頭をそっとなでました。
 昨夜、お腹から出て来たばかりの赤ちゃんです。
 その赤ちゃんを見るだけで、身体の奥のほうからじんと切ないほど暖かいものが沸き起こってくるのです。そしてそれは、胸の奥にまで来て、じんじんとお乳に変っていくのでした。
 赤ちゃんの口に乳首を近づけると、ちゅっちゅっと音を立てて吸い始めます。
 そしてさらに体中が、愛の塊のようになってしまうのでした。
「稲倉先生の言ってた通りなんだ」とサヤカさんは実感しました。
 宇宙の摂理にしたがって産むと、意識しなくたって身体が赤ちゃんを愛してしまうんだと。おっぱいが出ないとか、赤ちゃんが病気じゃないかとか、なにか不具合があることばかり心配していたのが、お産をとてももったいないものにしているのだと思うのでした。
 なんて可愛いのかしら。なんてキレイなんだろう。
 サヤカさんは、顔がにやけてしかたありませんでした。
「あーもう幸せ!」と叫び出したい気分でした。

 身体を起こすと、部屋の中にはみんながいました。
 昨夜一緒にお産に立ち会ってくれた家族でした。
 まだみんなすやすやと眠っています。 
 最初に起きたのはミキオさんでした。
 次に起きたのは小学生になったミツル君。
 その次は幼稚園のトモちゃんでした。
「ねえ、みんな。今度の女の子の名前、決まった?」サヤカさんは訊きました。
「もちろん決まったよ」とトモちゃんは言いました。
「最初から決まってたもんね」とミツルくんが言いました。
「だって、虹のすべり台をすべる前に会ってたんだもん」とトモちゃんが言いました。
「へえ、その虹のすべり台ってなんだい?」とミキオさんが訊きました。
「ないしょー」とミツル君とトモちゃんは笑って言いました。
「ええー、教えてよー」
「大人には教えないもん。ねえユキちゃん」とトモちゃんは言いながら、赤ちゃんの頬をやさしくなでました。
 赤ちゃんのユキちゃんは、おいしそうにお母さんのおっぱいを吸っていました。
 それを見ているだけでみんな、とても幸せな気持ちになりました。
 サヤカさんは決まったばかりの赤ちゃんの名前をそっと囁きました。
 
 おしまい。
 
 
 
 
©Muneo Oishi 2005

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