子ども一人=ベンツ一台

MerChedes..

子ども一人=ベンツ一台。
子ども一人=家一軒。

東京ではこれが相場であると考えられている。なんの相場かというと、養育費用のことだ。子どもが一人生まれると、親はベンツ一台分か、一軒新築するくらいの金額を負担しなければ、満足に育てることができないというのだ。よくファイナンシャルプランナーがこのようなことを言っている。例えばオールアバウトでは次のような記事がある。

子どもを育て上げるのに3000万円!?

また、ウィキペディアで「少子化」を読んでみてほしい。経済産業研究所の藤原美貴子氏が日本人官僚に対するセミナーで「今の日本において、子育ては非常に高くつきます。ですから、子どもを作るか、夏用の別荘を買うか、最新モデルのベンツを買うか、という選択を迫られているようなものです」と語ったと書かれている。

少子化(ウィキペディア)

これは誕生から成人まで、20年間の合計だから、一年に換算してみると150万円、月で割ると約12万ということになる。我々は子ども一人に、毎月12万も払っているというのだ。我が家は五人子どもがいるから、毎月60万払っていることになる(笑)。

たしかに、大学に進学すれば莫大なお金がかかるが、それにしてもこの数字の算出根拠には疑問符がつく。これこそ「東京都港区セレブ基準」だ。このようなマックスに近い金額が養育費の基準値だという。これでは、経済的に厳しい若者カップルは、子どもを作る気には到底なれないだろう。

地方都市や田舎に住む大多数の世帯にとって、養育費はここまで大きなものだろうか。

FPの分析した「養育にかかるお金」「教育にかかるお金」をみてみると、そのほとんどが、そこまでお金をかける必要のないものばかりだ。これも、愛と愛情の勘違いと共に、愛とお金を混同した典型的な価値観と言える。まるで、子どもに愛情を注ぐためには、これほどのお金をかけなければ、愛情ではない。これだけのお金が用意できないなら、そもそも子どもなど作るべきではない、とでもいわれているかのようだ。

実際、子どもを育てるのに、お金をそんなにかける必要はない。それどころか、子どもが増えたことで、むしろ収入が増えている。これが五人の子どもを育てている我々夫婦の率直な感想だ。これは何も子ども手当のことだけを言っているのではない。

家内の実家ということはあるが、田舎で五人の子どもと暮らしていると、多くの人達が少ない学校の生徒が増えたと喜んでくれる。少子化問題は、特に田舎では深刻な問題として認識されている。子どもは文字通り宝なのだ。だから、地域みんなで育ててくれるという感覚がある。大変ありがたい。

身内や友人、知人との間で食料や衣料品の多くがシェアされる。我が家では子どもの服を殆ど買ったことがない。新品は祖父母が買ってくれるし、親戚からのお下がりは新品同様で回ってくる。家賃や光熱費、雑費の多くが不要である。増えるのは車に関する維持費だけ。周囲に何も店がないので、ミニバンなどの車は必需品だ。

インターネットがあれば情報や買い物には事欠かないし、ビジネスはいくらでも可能だ。子どもたちは空気のよい自然環境の中で、健康的な日々を送りながら、有害な情報に接することなく、毎日わくわく楽しい毎日を過している。ベンツ一台分のお金があれば、五人育ててお釣りが来る。

子どもは生まれてくるとき、米一俵抱えて生まれてくる、と昔言われていた。子どもは、目には見えないけれども、自分の食いぶちをちゃんともって生まれてくるという。だから、子どもが生まれると、ちゃんとその分だけ収入が増え、育てることができると。

また、旅行作家の小林正観さんはこんな話をしていた。

彼には二人娘さんがいるが、一人は障害者だそうである。最初は世界が真っ白になるほどのショックだったが、徐々に受け入れ、愛せるようになってくると、不思議に収入が上がったという。改めて周囲の障害者を持つ家庭をよく見てみると、二通りあると気づいた。障害者の子どもでも、関係なく愛し、幸せそうにしている家庭は裕福になる。障害者の子どもを受け入れられず、重荷に感じ、不幸だと嘆き苦しんでいる家庭は貧困になっていく。

彼は、障害者の子どもは、大きな豊かさを持って生まれてきているらしい、という宇宙法則を見つけ出したと語っていた。

この話を聞いて、私は「それは障害者の子どもに限らないのではないか」と思ったものである。子どもは皆、大きな豊かさを持って生まれてきているのだが、そのことに気づかずに、自己犠牲を払いながら不平不満を言っていると、どんどん苦しくなってしまう。子ども一人ひとりの持って生まれた豊かさを信頼し、愛していると、どんどん豊かになっていく。

そして、実際そのとおりになっている。子どもが増えれば増えただけ、我々夫婦の稼ぐ力は上がり、子どもたちの収入(お年玉を合計すると、一ヶ月の給料分になってしまう)も加算され、総合計がうなぎのぼりになっている。

しかし、どうも世間一般ではそうではないらしい。ベンツ一台、新築一軒かかるという。どこに違いがあるのだろうか。

親が幸せであるかどうかが、キーではないか。

もし、今幸せではなかったとしても、幸せたるべき挑戦し続けているかどうかではないだろうか。

最初から幸せな人はなかなかいない。だが、初期段階で愛がなくても、自由がなくても、お金がなくても、幸せであると認識するところからしか、変化は始まらないものだ。苦しいからこそ、幸せを目指すのだが、そのとき今の自分の状況に対し不平不満を言い続けても、抜け出せない。どんなに小さな幸せでも、そのかすかな光を大切に育てるしかない。

正論ではあるけれど、すべての変化は、今からしか始まらない。過去を変えることはできない。これは、受け入れるしかない事実なのだ。

我々が決めたことは、子どもに一切犠牲を払わない、ということである。本質的に自分が嫌なこと、本当はやりたくないことを、子どものためにやらない。自分のしたいことをせずに、子どもを優先することを、一切しないと。

誤解のないように申し添えておくと、それでは家事や洗濯や掃除やおむつ替えや給油や草刈りはやりたくないからやらない、といった、ネグレクトを推奨しているのではない。あくまでも自己実現に関わることで自己犠牲は払わない、という意味だ。

なぜかというと、我々は母親の自己犠牲によって育てられた部分が多かったからだ。父親は子育ての殆どを母親に押し付け、好きなことしかやっていなかったが、仕事において同じように自己犠牲していた。家族まるごと自己犠牲を強いたのだった。

このような愛情はあまり嬉しくはなかった。それどころか、親が自分を犠牲にすることで、子どもを束縛することを正当化したり、子どもが欲してもいないものを買い与え、自己満足したりしていた。子どもの思いとは常に距離感があった。罪悪感と束縛感は、さらに子どもの自己否定感やコンプレックスの温床となった。

子どもの罪悪感を刺激して、子どもを親の思い通りにコントロールしようとすることを、親の受動攻撃という。

「あなたは小さい頃、病弱で、私は毎晩あなたをおんぶして過ごしたのよ」と毎日母親から聞かされたら、子どもは「申し訳なかったな」「母親に苦労かけてすまない」と思うだろう。苦労かけたぶん、母親の言うことは何でも聞かなくては、と思う。さらに、自分は子どもの頃から病弱だったから、今も自分は病弱で、母親の助けがなければ満足に生きて行けないのではないか、と思い込むようになる。

こうして、大人になっても、母親に「あなたはこの仕事でなければ無理よ」「その人はあなたと結婚するのはふさわしくないわ」などと母親が言うと、それに逆らうことができない。母親が不機嫌そうな顔をするだけで、胸の奥がチクチク傷み、そんな行動をとった自分を責めてしまう。「自分はなんて親不孝なんだ」「自分はなんてだめなんだ」と責めるようになる。母親の承認がないと、自分のやりたい事もやることができなくなってしまう。

しかも「親は子どものことがいつまでも心配なのよ」「それが親の愛なのよ」などといって、このような受動攻撃的なあり方を正当化する。だから親は全く悪気がないし、子どもは自分だけが悪いと思い込んでしまい、この悪循環から抜け出せなくなってしまう。こうして、いつまでたっても、親から自立できなくなる。

このように、子どもをスポイルし、結果自分の思い通りにしてきた親は、今までも相当に多かったと思われる。

自立するには、このような罪悪感は、親からの一方的な自己犠牲の押し付けから刷り込まれた束縛に過ぎないと気づき、解放するしかない。

我々夫婦は、幸いこのような親子関係から、様々な苦闘の変遷を経て自立し、現在は束縛から抜けだしてひとり対一人の親子関係を取り戻すことができた。そして、親が自分を犠牲にして苦しみながら子育てをすると、結局一番迷惑するのは子どもなのだと理解した。

子どもに罪悪感を持たせない最良の生き方は、親が毎日を犠牲ではなく、愛と信頼と情熱で生きることである。

子どもを育てる最良の方法は、自分の体を削って与える偽りの愛ではなく、いかにすれば幸せになれるか、その方法を教えることだ。

愛や、自由や、豊かさを、親が直接子どもに与えることはできない。子どもにとって一番の愛は、親の愛ではなく子どもの未来のパートナーから与えられる愛だからだ。子どもにとって、一番の自由は、親が子どもに与えた仕事や職業ではなく、自分自らが情熱的に生きながら、見つけ出すものだからだ。一番の豊かさとは、親の与えたお金ではなく、どんな時でも自分で稼ぎ出すことの出来る方法を知っていることだからだ。

親は子どもに運命の伴侶を与えることはできない。親は子どもに天職を与えることはできない。親は永続的な財産を与えることはできない。

しかし、親は子どもに運命の伴侶にどうすれば会えるかを教えることはできる。親は子どもに、どうすれば天職を見つけることができるかを教えることはできる。親は子どもに、どうすれば永続的に稼ぐことができるかを教えることができる。

私が今、このように幸せに至る道筋を言葉にしているのは、子どもたちに伝えるためである。

愛の代わりに高額な費用を投下して、本人が望んでもいない教育機関に通わせるのは、愛でもなければ、自己犠牲でもない。ただの無責任に過ぎない。

もし自分が今幸せでないなら、幸せになる方法がわからないなら、幸せになるためにどうすればよいか、真剣に模索するしかない。その後姿を子どもは見て、一緒に歩こうとするからである。

もちろん、親は万能ではない。失敗もするし、愚かなこともする。そのような失敗は、反面教師とすればいい。親は絶対的な権威ではないし、教祖でもない。常に道を探し続け、挑戦し続けるアスリートに過ぎない。

しかし、そうやって生きている親の真剣な姿は、子どもに伝わるものだ。子どもは、はるかによく、高い魂を持った存在だ。日々語らい、笑ったり怒ったり泣いたり叫んだり、さまざまなやりとりを通じて、深くつながりあう。そのなかで、彼らは自分自身を成長させていく。

教えて欲しければ「教えて」といってくる。体験したければ「やらせて」といってくる。その時、その時に全力で応えていく。自分から学びたいというのであれば、全力で応援し、協力するのは当然である。それなら、習い事も、塾も、通信教育もどんどんやればいい。

親としてできることは、お金の制限で子どもたちのできないことを作らないよう、最大限努力することだ。それも子どものためではなく、自分が豊かになりたいがためだ。子どもたちが幸せになれば、家族が幸せになれば、自分はつまらない仕事でも構わない、という親の姿は、子どもにとって嬉しいことではない。

子どもにとって最大の幸せは、親が幸せで活き活きとし、魅力的なことだからだ。

だから親自身もまた、常に自分の幸福を実現させるために、毎日を過ごす。親それぞれが自己を実現するために、日々成長する。夫と妻が愛しあうことが生活の中心であり、子どもはあくまで親元は仮の宿である。

彼らは、自分の運命の伴侶と出会い、天職につき、豊かさを得て自立しなければならない。もちろん、それ以外の幸せを臨むなら、それを実現させなくてはならない。彼らが自分自身の力で、自分の願う幸せを実現する。それをサポートするために、子育てはある。

子育ては子どもを制御することではない。自己犠牲でもない。子どもたちは、自分自身の手で、幸せを実現していく。それをサポートするのが親の仕事なのである。だから、なによりも大切なのは、親が幸せであることだ。

子どもたちと接する一瞬一瞬もまた、大切な幸せの一部だ。

子どもがいることで、自分が高まることができる。それが、子どもがいることの最大の恩恵だ。なぜなら、子どもは常に成長し続けるからだ。その成長のエネルギーが、親を成長させてくれる。素晴らしい加速力で。

子どもにかかるのはお金ではない。自分がどう生きているか、それだけだ。むしろ、子どもは両親に無限の豊かさを与えてくれる存在なのだ。

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