おおきな木は幸せになれなかった

シェル・シルヴァスタインの有名な絵本「おおきな木」をご存じない方はいないだろう。村上春樹さんの新訳書が出ている。

絵本コーナーに行けば、緑色の装丁をしたこの本は嫌でも目につくはずだ。原題は「The Giving Tree(与え続ける木)」となっている。絵は「スヌーピーとチャーリー・ブラウン」のチャールズ・シュルツの筆致とよく似ている、味のある粗いペン画である。

粗筋はこんな感じだ。

幼い少年は、りんごの木が大好きだった。彼は、毎日毎日、木と一緒になって遊んだ。木も、そんな少年が大好きだった。木登りをしたり、かくれんぼしたり、りんごを食べたり、そんな毎日を、少年と木は楽しんだ。

やがて少年は成長し、木ではなく彼女とともにいることを好むようになり、木と遊ばなくなった。しかし、木はずっと少年が来るのを待っていた。

ある日木のもとに現れた、おとなになった少年は「一緒に遊ぼう」という木の誘いを退け、「僕はお金がほしい」という。そこで木は自分に実っているりんごを売ればいいという。そこで少年は、りんごをみんな持って行ってしまう。

それからまた長い年月、少年は姿を見せないが、久々に姿を見せたとき、彼は中年になっている。「一緒に遊ぼう」と木は誘うが彼は「家がほしい。嫁さんがほしい。子どもが欲しい」という。木は「では私の枝を切って、家を立てなさい」という。少年は枝をみんな切って持って行ってしまう。木は幹だけになってしまう。

さらにまた、少年は姿を見せないが、木は彼が来るのを待っている。久々に姿を見せると、少年は初老の貧相な男になっている。「一緒に遊ぼう」と木は誘うが、少年は「自分は不幸で何もいいことがないから、別の場所へ行きたい。船がほしい」という。そこで木は「私の幹を使って船をつくりなさい」という。少年は木を切り倒して、持って行ってしまう。木は切り株になって、そこで再び彼が来るのを待っている。

さらに何年かたち、少年が姿を見せたとき、彼は死にかけの老人である。木は「何がほしい? でももう自分には与えるものが何もない」という。少年は「もう自分はなにもいらない。ただ、腰掛ける場所がほしい」という。そして木は「それなら私に腰掛ければいい」と喜ぶ。少年は腰をおろす。

こんな物語である。

さて、これを読んだあと、どのような感想を抱かれたであろうか。

ただ、何かを与えてくれと頼む少年と、自分の体を与え続ける木。そこに親子関係を見ることもできるだろう。友人や夫婦関係を見ることもできるかもしれない。会社と従業員という見方だってできるし、宗教者だったら神と人間という見方だってできるだろう。

自分の体をただ与え続ける「木」の行為を見て、そこに崇高さを感じる人もいるだろう。逆に、いいしれぬ哀しみや無力感を感じる人もいるかもしれない。

与え続けても何も報われることがないのに、ただひたすら与え続ける「木」の姿に、高貴な親の愛を見ることもできる。しかし、一方的に与えながら、何一つ報われることがない姿に、不条理さや理不尽さを感じることもあるだろう。

「おおきな木」は、まさに20世紀まで脈々と伝わってきた「愛は自己犠牲」をいう定義をモチーフにしている。この物語の稀有な点は、自己犠牲による愛は、結局のところ誰も幸せにしないということを、はっきり示していることにある。

一方的に与える方も、一方的に与えられる方も、明らかにバランスを欠いている。なにより、もっとも気づかねばならないのは、我々の中にこのような「与え続ける木」のような行為を、なんの疑いもなく肯定してしまう価値観が存在しているということである。

最終的に、この二人の愛は、木は切り株というもはや成長の可能性もなく、木という形すら持ち得ない最小の姿になってしまっている。少年は深く年老い、不幸である。まるでそれが人生だと言わんばかりであり、実際多くの人々はその姿を見て、共感したり、涙を流したりするのである。

木は植物だから、それで幸せだと思えるかもしれないが、もし人間が「奪い取られても、与えることができた自分は幸せだ」と心のそこから思えるだろうか。少なくとも、あなた自身が、もしこのような「おおきな木」のような人生だったとして、それで幸せだと心から思えるだろうか。

「人生とは結局、誰も幸せになんてなれないのだ」「それが人生というものだ」という諦観がもし自分の中にあるとしたら、このような思考、価値観、信念、定義は一体どこからきているのだろうか。

「四苦八苦」といえばお釈迦様である。

四苦とは生老病死、「誕生の苦しみ」「老化の苦しみ」「病気の苦しみ」「死の苦しみ」である。さらに加えて、愛別離苦(あいべつりく) – 愛する者と別離する苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく) – 怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求不得苦(ぐふとくく) – 求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく) – あらゆる精神的な苦しみの四つを合わせて八苦と呼ぶ。

この世は苦しみに満ちており、悟りとはこのような現世に幸福を期待するのではなく、不幸を諦めて受け入れることだというのである。「人生とは苦の娑婆である」と悟り「諦める」こと。これが釈迦の教えだと、多くの人は信じている。

「自己犠牲」といえばイエス・キリストである。

人類の原罪(生まれながらにして持っている共通の罪悪)を神に懺悔し、許しを乞うために、たった一人で十字架にかかり、すさまじい苦しみを与えられた末、殺された。このイエスの自己犠牲のように、自分の体をも投げ出し、犠牲にして与えることこそ、真の愛だというのである。

この「おおきな木」という物語には、「人生とは苦の娑婆である」「愛は自己犠牲である」という、二大聖者の教え(と定義されているグローバルレベルの同意・集合的無意識)が見事に表現されているといえよう。

しかし、果たしてそれは現実を正確に定義付けているだろうか。
我々の直感が告げるものは、それと全く相反するものではないだろうか。

視覚は、美しいものや可愛いもの、壮大なもの、輝かしいものなど、様々な光の輝きによって、我々を楽しませてくれるではないか。聴覚は、鳥の声や愛する人の声や、美しい楽器の響きなどによって我々を喜ばせてくれるではないか。味覚や嗅覚は、おいしそうな料理の複雑な匂いや味で我々を満ち足りた気持ちにさせてくれるではないか。触覚は、暖かさや涼しさ、滑らかさや柔らかさで我々を慰撫してくれるではないか。

性の快楽は、我々をどこまでも幸福で気持よくさせてくれる。前立腺や陰核はただ、男性や女性の肉体に性的な快楽を与えるためにのみ、肉体に備わった器官である。裸で愛する人と抱き合う時、体全体の神経が感じる、深い満足と悦びはどうだろうか。ドーパミンやエンドルフィンなどの脳内ホルモンは、恍惚と幸福へと誘う天然の無害な麻薬である。

これらすべてを、否定することはできない。我々は、十二分に幸せを感じられるように出来ているのである。

それにもかかわらず、我々が幸せを感じ取れない理由は、自分で自分を幸せにしないよう、幸せを禁じているからだ。「愛は自己犠牲」「人生とは苦の娑婆」といった古い定義をいまもなお、疑うことなく受け入れ、自分の無意識に放置したまま、現実創造しているからである。

もう一度、「おおきな木」を再読してみてほしい。そこに「諦め」「哀しみ」を感じるなら、あなたの中には今も尚「愛は自己犠牲」「人生とは苦の娑婆」という古い定義があることを示している。釈迦もイエスも、そんなことはいわなかった。

釈迦は「天上天下唯我独尊」と説いた。それは「あなたの世界を作り出しているのは、あなたただ一人だ」と言っているのである。あなた次第で世界は変わると言ったのだ。彼は諦めなどといてはいない。世界をよく見て、その世界に不幸があるなら、それはあなたが創りだした現実だと悟り、自分自身を変えれば、いくらでも変わりうると説いたのである。

イエスは「愛は自己犠牲」などとは説いていない。彼は神の前で、人はすべて同じであると説いた。神は、無限の存在である。愛は無限である。神から溢れでたものが、愛なのだ。同じように、我々もまた神の子である以上、神から与えられた愛で溢れたとき、人に与えることは犠牲でもなんでもない。おすそ分けに過ぎない。

我々一人ひとりが、愛で満たされ、自由で満たされ、豊かさで満たされ、幸福で満たされたとき、分かち与えることに何の苦しみがあるだろうか。そしてこのように余ったものを分かち合う関係性の中で、損なわれるものなど何も無い。ただ、心の豊かさと、ものの豊かさが循環し、螺旋状に上がっていくだけである。

りんごを与えるまでは良かったのだ。翌年になれば、いくらでもまた木は実を付けることができる。そのりんごを植え、増やせばいいと少年に言えばよかったのだ。そうすれば、皆が幸せになっただろう。木は、切り株になどなる必要はなかったし、少年は不幸な老人になることもなかっただろう。

この本は、最後に「きは それで うれしかった・・・ だけど それは ほんとかな?」 と疑問を投げかけている。新訳では、もっと端的に「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」と明確になっている。

自分の体を削って与えても、誰も幸せにはなれない。自分から溢れ、豊かに実りをつけたものだけが、幸せを増やしていく。愛とは、豊かさとは、幸せとは、そういうものだと定義付けたとき、人生は苦の娑婆ではなく、地上は生きながらにして楽園になるだろう。

この本は、我々の中にある、大きな愛の誤解を指摘している。稀有な絵本である。

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